荒俣 |
IT革命が革命かどうかは別にして、
ぼくが見る限りでは少なくとも最近の変化は、
人間の業のごく自然なプロセスであって、
もうこういう方向に行くのは、2000年くらい前から
あらかじめわかっているという感じがします。
最初は、みんな文字が読めなかったですよね。
しかも、文字を読めても、その意味や
昔の格言だとかソクラテスが誰かがわからないと
読んでいても意味がないので、そうなると
当時の1億人もいなかった人類のうちで
本なんてものが必要だったのは、
たぶん10人か20人くらいじゃないでしょうか。 |
糸井 |
うん。 |
荒俣 |
だから当時は粘土版でよかったわけです。
それがだんだん、印刷でコピーを取るようになって
字を読みたくなる奴が多くなった。
でももともと根本的に必要なアイテムではないから、
本を読むのに動機やこだわりが要ることになる。
「知恵を得るためには読書だ」
みたいなところで、みんな勢いをつけて
要らないはずの読書に携わったのだけども、
その勢いをもう少しうまくやる方法が、
本の幻想の低下によって
出てきたんじゃないかとぼくは思います。
ネットくらいになると幻想がないから、
エネルギーの使い方がずっとうまくなった。
切り貼り自由というようなことは、
昔の本のルールからすると反則だったのだから。
我々は、
人間の業の最終レベルの一歩手前くらいまで
辿りついているというような感じがします。 |
糸井 |
辿りついてますよね。 |
荒俣 |
この辿りつきかたというのが、
我々人間にとって本当に幸せなのかどうかは
なかなかむつかしいところです。
そこそこ業が深いのはいいのだけれども、
あまりにも深すぎると自滅してしまう。
最後の一歩はどこなんだろうというところが
次のステップなのではないかと思います。 |
糸井 |
つまり、何もかもが解放されちゃった時に
自分が生きてるところがわからなくなるような、
そうなる予感は、もうすでにありますよね。 |
荒俣 |
ええ。 |
糸井 |
「トゥルーマンショー」を見て
ぼくらは笑うけれども、
見ているという意味では
すでにそれと同じ世界を体験しているわけで、
どこまでが「最後の一歩手前」なのかは
判断がなかなかむつかしいです。 |
荒俣 |
今は、ハード面の
メモリやディスクの容量をでかくしたり、
機械の速度を早めることを進めているけれども、
人間がそれを超える量を使いたがりますよね。
だから、これはだめだ、次のコンピュータ、
というようにうまい具合に幻滅せずにすむけれど、
たぶんそのうち、人間の知識をすべてつめて、
いろんな人のホクロやワキの下の毛などを
みんな集めても、それでもまだまだ
容量がたくさんあまっているようになったら、
人間が進んでいい最終レベルの時だと思うんです。
・・・その時が来たら、
自分のパーツから提供できるものが
なくなってしまうのではないかという気がします。 |
糸井 |
自分のパーツが出せなくなる時期が来るというのは、
けっこうインターネットをやった人は、
みんな考えているところですよね・・・。
つまり、情報を出し入れしている以外の時間に、
自分が何を求めているのかを、それぞれの人が
本気で考えなければいけなくなってきますもん。
幸せ観とか世界観とか人間観とかいった、
高校の倫理の先生が言うようなことを
自分で一から組み立て直す必要が出てきたというか。
それぞれで、生きるためのプライオリティを
どっかのところで曲がりなりにも決めていくのが、
避けられない自分自治なんだろうなあと思います。 |
荒俣 |
パーツで言うと、インターネットには
いろいろな個人のパーツが出ているんだけど、
このパーツがほんとかどうかが
実際には分からない・・・。
ただ、一つは言えるのは
インターネットに出てきたものは
嘘であろうが本当であろうがデマであろうが、
まあ情報であることには違いないわけです。
この雑多な情報を組みあわせて
嘘どうしでつなげたものが、もしかしたら
パーツとしては嘘かもしれないけれども、
トータルとしては何も嘘ではないものが
できてくる可能性があります。
それがおもしろい。 |
糸井 |
覆面レスラーの登場みたいなもので。 |
荒俣 |
インターネットができて、
使う人にとっておもしろいのは、
自分で覆面レスラーになれるところですよね? |
糸井 |
そうですね。 |
荒俣 |
もっと言うとマリリンモンローにさえなれる、
つまり、ネットの中での自分を作れる・・・。
ここ10年くらい、
自分好みの女子高生を育てるゲームが、
よく流行ったじゃないですか。
ファイナルファンタジーにしてもやはり、
自分の好きなキャラを設定して、
その点数をあげて、バーチャルな中での
主人公を育てるゲームだったんだけども、
これからネットの中では、いろいろなかたちで
自分を育てることになるんですよね。
それはたぶん、嘘の自分でもいいわけです。
そうすると、自分が2倍になる。 |
糸井 |
自分で自分を編集していくんですよね。 |
荒俣 |
裏自分と表自分というか、
プリティ自分とダーティー自分みたいなものが
どんどんできてきますよね。
さっき、パーツが尽きるとぼくは言いましたが、
それは本当の自分という点でなので、尽きた時に
今度は自分パート2を出せば、それを出しただけで
自分のフェイズを変えることが可能になります。
この「リアリティではない」というところが
非常に重要なポイントになると思うんですよ。 |
糸井 |
なるほど。
ただ、実は言うとぼくは、インターネットで
発信しはじめたのが98年の6月なのですけれども、
そこで自分なりには、休まないと決めたんです。
休まないことの恐ろしさは、
多少ともものをつくって来た人間には
もう充分わかっていることですよね?
だからぼくも可能ではないということも
考えにいれていたんです。可能じゃない時には
たとえ1行だけ「今日の朝飯」を書いてでも、
とにかく多少なりとも更新してみようと考えました。
それがいつ果てるかと思いながらやってるけど、
これが・・・果てない。
怖かったんだけど、
「できなかったからやめました」
と書くことも含めてスタートしてみたら、
実は、書けなくなることがなかったんです。
今は2年半ですけれども、
たぶん、100年でも続けられますよ。
だって、その時々の俺がやっていることや
俺の考えていることって、
何かしら違ってきますから。 |
荒俣 |
昨日の自分と今日の自分で、
もうバージョンが変わるわけですか。
おなじことを書いても、違うわけですね。 |
糸井 |
そうなんです。
そこで、カラになることの恐怖から
ぼくは解脱できると思いました。 |
荒俣 |
みんな、それで苦労してるもんね(笑)。 |
糸井 |
そう!(笑) |
荒俣 |
みんな、文章を書く人たちは、ネタと称して
いろいろ仕入れなきゃいけないと思ってますから。 |
糸井 |
そうそう。
ネタを仕入れて自分を工場にして
そのサービスを商品化して発信するという
これまでの考えそのものが、
工業化社会的な発想の表れなんじゃないかなあ。 |
荒俣 |
まさにそうですね。 |
糸井 |
仕入れに対する怖れはなくしたところで
何かをするという時の気持ちが、
これはもう一つ別の恐ろしさや楽しさを
味わえるという気がします。
そこが、ネットのすごいところで。
ぼくは自分自身が進化したとは思わないけれど、
ネットで毎日吐き出していくことで変わったのは、
さっき「本は一行でいいです」とおっしゃっていた
その「1行の本」が、山ほど増えていったことです。
人にひとり会うごとに、また本が一冊増える。 |
荒俣 |
1日1行1冊書いてるようなもんだ。 |
糸井 |
そうですね。
実際、人に会うことが随分おもしろくなったし、
ちょっと危なく見える仕事でも
引きうけちゃったほうが自分で楽しめるぞ、
と思えるようになっちゃっていました。
「ここで俺のネタの何を出そうか」
というような考えかたを昔はしていましたが。 |
荒俣 |
だいたい、若い時にはそんなものですよね。 |
糸井 |
何かを人と人とのあいだでひっぱりあっていれば、
そのひっぱりあいだけでも充分に注目される。
今までは商品のかたちをしていないものが
迷惑がられていたけれども、
これからは、それもそのまま出せるんです。 |
荒俣 |
それ重要だなあ。
さっきの書物と人格の問題につながると思いますが、
つまり、完成品を発売する必要が
なくなってきたんですよね。
(つづきます)
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