サムライ闘牛士登場?! スペインに闘牛士になりに行った男。 |
何もかも順調に始まったかのようなぼくの闘牛修業。 しかし・・世の中、そんな簡単に 物事がうまく進むものではありません。 僕の前にはいくつもの大きな壁が 立ち塞がることになるのでした。 まず、「闘牛術の習得」・・ 闘牛士の練習とは大きく二つに分けられます。 まず一つは「サロン」と呼ばれる仲間同士の練習です。 一人が闘牛士役、もう一人が牛役。 それを交互に繰り返して練習する訳ですね。 牛の角を持った、もう完全に牛になりきった男が 闘牛士の持つ赤い布めがけて突進する・・・ それをゆるやかに美しくやりすごす闘牛士。 この型の練習こそが毎日行われる基本練習なのです。 よく日本のTVでもそんなシーンが紹介されたりして、 笑いを誘うものですが、 やってる本人たちにとっては真剣そのもの、 それにかなりきついものでもあるのですよ(笑)。 そしてもう一つが実際に牛を相手にする練習。 これこそ何より重要。 たとえ「サロン」の練習だけを 50年・100年やったところで、 それだけでは決して生きた牛を あしらえるようにはなりませんよね。 どんなに闘牛士としての才能・資質がある者でも、 実際に牛を相手に練習しなければ、 闘牛術なんて学ぶことは出来ません。 だから・・・ いかに生きた牛相手の練習機会を得るのか・・・ これが闘牛術を学んでいく上で尤も大切であり、 また尤も困難なことでもあるのです。 といいますのは、闘牛用の牛って高価なのです。 しかも闘牛用の牛は1回でも闘牛士と対峙して 数分の間、闘牛士の練習相手となるだけで、 すぐに闘牛士と彼の用いる布の区別がついてしまい、 その後いくら闘牛士が牛に布の方を攻撃させようとしても、 牛は迷わず闘牛士の体だけを 攻撃するようになってしまうのです。 これでは闘牛は不可能! 牛はたった1回しか使えないのです。 だから高いし貴重なのです! 当然のことながら試合に出てくる牛は、 一度も闘牛士と対峙していないものが出されるのです。 もし、いくらでも未使用牛、 つまり「新品」を買うだけの余裕がある者なら・・・ 闘牛術は彼にとって 比較的、短期間に学べるものかも知れません。 現代ではスター闘牛士の二世、 甥または闘牛牧場主のそれなどが 闘牛士になるのが圧倒的な主流となっておりますが、 それも当然といえば当然のこと。 彼ら恵まれた者・・・エリートといってもよい・・・ 良い牛相手の豊富な練習機会、 さらに闘牛界では欠かすことの出来ない 「コネ」を最初から与えられているのですから。 それでは「新品」を買うお金のないぼくらは、 どうやって良い牛相手の練習機会を得るのでしょうか? 闘牛牧場には「テンタデロ」もしくは 「テイエンタ」と呼ばれる雌牛の試験があります。 一般的には満2歳になった雌牛を、 プロの闘牛士が実際に演技を行ってみて、 その雌牛がはたして子を生むに値するかどうかを 判定するものなのです。 「母が勇敢なら子も勇敢に違いないだろう、多分!」 みたいな。 だから、試験に合格した雌牛は 子を生ませる為に牧場へ残し、 不合格となった雌牛は畜肉業者へとおろされるのです。 その雌牛の試験こそが、 ぼくら闘牛士志願者のほとんど唯一の 生きた良い牛相手の練習機会となるのです。 プロが雌牛相手に演技を終えた後に、 ぼくら闘牛士志願者ははじめて演技を許されます。 もうプロがその雌牛相手に 十分に練習しつくした後ですから、 当然雌牛は最初より難しくなってしまっています。 それをプロよりはるかに技術・経験ともに 劣る闘牛士志願者があしらうことになるのですから・・・ 雌牛にこてんぱんにやられてしまうことも 決して珍しいものではないのです。 難しくなった雌牛相手に もう何にも出来ないときだってあります。 当然、このやり方では 牛を購入したりして練習するのと比べ、 闘牛術を習得するのには それなりの年月がかかってしまいます。 でもこれがお金のないぼくらに与えられる 唯一の練習機会なのだから・・・ たとえどんなに時間がかかろうが。 上手い者は良い牛相手にどんどん練習し、 どんどん上手くなっていく。 しかし、そうでない者はいつまでたっても下手なまま、 という世界なのです。この闘牛という世界も。 よくある村祭りなどでのカペア(草闘牛)では、 既に使用済みの牛、最初から人間の体を狙ってくる牛・・・ が出されるので、ぼくたち闘牛士志願者にとって なんの練習にもならないのです。 それでも・・ぼくたちは何度も草闘牛にも通いました。 危ないだけで、練習にも役立たないけれど・・・ やっぱり、牛が好きなんでしょうね(笑)。 友人となった見習闘牛士仲間のビクトルと、 ウエルバのラ・メルセ闘牛場で毎日汗を流すぼくでしたが、 マエストロであるミゲル・コンデや その他の人たち(皆さん闘牛士の助手でした)が 面倒見てくれたのは・・最初のうちだけ。 最初のうちは物珍しさもあったのか、 雌牛の試験などにも連れて行ってくれたのですが、 そのうち「飽き」がきたのか、2週間位もすると 自然とぼくの事には見向きもしなくなりました。 これはスペイン人(特にアンダルシア人?)には よくあること。 自分が興味ある時は・・・これでもか!という位(笑)。 しかしいったん関心を失うと まるで別人のようになってしまう・・・ 当時、スペイン人もスペインの生活も 何一つ知らなかったぼくには、まるでその訳が分からず、 「・・・見放されたのか、この俺は・・・? 最初はあんなに皆親切だったのに・・・ 俺じゃ闘牛士になれないって、ことなのか・・・?」 みたいな。 よくビクトルが言ってくれたものです。 「タイラ、あいつらそんなもんだって。 俺なんかもう1年以上もここで練習してるけど、 牧場に連れていってもらったことなんて 1度もないんだぜ。 お前は2回も連れてってもらったんだから ラッキーな方さ。 よっぽど面白かったんだろうよ、お前の事がさ! なぜ、あいつらが 俺達を助けてくれないか分かるかい? なぜ雌牛の試験にすら 連れてってくれないのか分かるかい? それは俺達が金持ってないからなのさ。 俺達が駄目だとか才能ないとか、 そういうことじゃないんだよ。 彼らにとって肝心な事は 自分たちが面倒みるやつがはたしてどれだけ 金持ってるかどうか・・・ つまりどれだけ試合に出れるかどうかなんだよ。 自分の面倒みたやつが試合に出れば、 彼ら助手たちは試合に参加するたびに 必ず報酬を得られるだろ? だからあいつら助手たちにしてみれば、 俺達みたいに 金なくて試合にも出れない者を教えたり、 牧場連れてったりすることは 完全な無駄なのさ。 なんで金も持ってないやつなんかを 助けてやらなきゃいけないんだ? ってことになるわけよ。 まあ・・・俺達みたいのに 突然パトロンでもついたりしたら・・・ あいつらいきなり手の平返すように態度が変わるぜ! おお、こいつは金のなる木だ!ってね(笑)」 孤立無援状態のぼくとビクトルは、 なんとか雌牛の試験開催情報を集めては、 生きた牛相手の練習機会を探すのでした。 ビクトルは単なる練習相手でなく、 スペイン語すら満足に理解出来ないぼくを相手に、 闘牛の技術、考え方などを教えてくれる マエストロにもなるのでした。 言葉、スペイン語の問題は、 やはり闘牛術を学んでいく上でも 大変なハンデとなりましたが、 ぼくはそれをどうやって学んでいったのか・・・ ウエルバにはスペイン語学校はありません。 ぼくは日本から持参した教科書や辞書で 少しずつ学んでいきました。 周りにはスペイン人しかいないし、意志を伝えるには、 生活するにはとにかくスペイン語話す他ないのですから。 また、下宿先の主人である ホアキンとその家族たちとの交流、 さらに近所の人達、見習闘牛士仲間・・・ ぼくは自然とスペインの、 アンダルシアの生活を学んでゆくのでした。 ウエルバ到着後3ヶ月もすると、 皆でお隣のセビリアに行ったときなど、 同じ日本人の観光客相手に簡単な通訳位は 出来るようにもなりました。 ぼくとビクトルは毎朝、 闘牛場で「サロン」の練習をして、 午後は雌牛の試験を探しました。 車もバイクも持ってないぼくらは、 牧場へ行くのに、とにかく行けるところまで バスに乗って、そこから牧場までは延々と歩く。 10kmだって20kmだって。 重たい闘牛道具を背負っては、 灼熱のアンダルシアの太陽に焼かれながら。 本当・・・喉の渇きに耐えかねたぼくらは、 小川の・・・なんか、 「オタマジャクシは蛙の子♪」か何か 泳いでそうな・・・水に口をつけたことも 一度や二度の事ではありません(笑)。 お腹が空いたら・・・そんなところには BARやなんかがある訳じゃなし・・・ 畑に入ってイチゴを収穫するとか。 一体何がぼくらをそこまでかきたてるのか・・・ 「闘牛熱」しかありえませんよね。 時にはヒッチハイクだって必要とされます。 しかし男二人を拾ってくれる車なんて そうあるもんじゃない。 一度、ビクトルの制止を振り払って (いっしょにいて恥ずかしかったそうです) ぼくは道路の上で 「死んだふり」までしたことがありました。 これならいくらなんでも止まってくれるのでは?と思って。 作戦は見事に成功しましたよ(笑)。 こんな冒険的(?)な闘牛修業を通じては、 徐々に、また着実に生きた闘牛術を 学んでいくぼくたちなのでした。 それでも・・・ 牛相手の十分な練習機会を得ることは 本当に困難極まるものだったのです。 「労働ビザとプロ闘牛士免許」・・・ また闘牛術の習得問題と並行して、 外国人であるぼくにはプロ 闘牛士免許を取得する為の「書類問題」が、 これまた大きな壁として待ち受けていました。 闘牛士は見習でも、助手であっても、 スペイン内務省の発行する プロ闘牛士免許を取得しないと、 試合には一切出場出来ないことになっております。 まず、ぼくが取得しなければならなかった 見習闘牛士免許の取得の為の条件は、 公認された闘牛学校で 最低1年以上の訓練を積んだ者。 もしくはプロ闘牛士または 闘牛牧場主の特別推薦を受けた者・・・ となっております。 ところが、外国人がそれを取得する為には スペインの労働居住許可書を所持していることが 必須・前提条件なのです。 観光客の身分じゃ駄目なのです。 「居住者」となっていることが条件なのです。 これは試合で事故などがあった場合、 社会保険などの問題も絡んでくるからなのです。 ご存知の通り、日本人がヨーロッパの国・・・ それも失業率の高いスペインの労働ビザを取得することは、 日本企業の現地駐在員等を別にしますと、 限りなく困難となっています。 スペインの労働ビザを 5年、いや8年待ってる日本人なんてザラだ、 と聞いたこともありました。 ぼくも・・・何度申請しても、却下されるばっかり。 「ああ。今年も駄目だった。また来年申請かよ・・・」 みたいな。いつだって 「日本人がなぜスペインで働かなきゃいけないのか?」 却下通知書から、 そんな「声」が聞こえてきそうでした・・・。 でも労働居住許可書を取らないと、 プロ闘牛士免許は取れない・・・ 闘牛士にはなれない・・・ ぼくの労働居住許可書申請の為に奔走してくれたのは、 ほかでもない下宿先の主人、 ホアキン・サンチェス氏でした。 何度申請を落とされても、 新たな雇用先・書類を集めてくれて、 ぼくといっしょに 毎日のように役所通いを繰り返してくれて・・。 ぼくは労働ビザ申請の為、 またスペインでの生活費捻出の為、 何度も日本に帰国しては アルバイト生活を余儀なくされました。 時間だけがいたずらに過ぎていく・・・ ただですら年齢オーバーのハンデ・・・ まるで先の見えないぼくの闘牛活動・・・ 「どうなっちゃうんだろう俺?」みたいな。 帰国する度に築地のまぐろ屋で働くぼくに、 スペインのビクトルから手紙が頻繁に届きました・・・ 「タイラ、何してる? 早くスペインへ来い! もうあちこちの牧場で雌牛の試験が始まってるぞ!」 「いつ戻ってくるんだ? せっかく学んだ闘牛術を忘れてしまうぞ! 早く牛の前に立たなきゃ駄目だよ! 早く、1日も早くスペインへ戻ってくるんだ!」 今年こそ!そして・・来年こそ! とぼくはまるで先が見えないながらも、 がむしゃらに頑張っておりました。 諦めたくなかったから。 なんとしてもこれを成し遂げたかったから。 日本人闘牛士としてデビューしたかったから。 ウエルバで、東京で・・・どこにいても、 ぼくはそのことだけ考えていました。 他の事はもう、本当にどうでもよろしくなっていました。 そして、1999年の9月、超難関をくぐり抜けて、 スペインの労働居住許可書を取得。 続いて念願であるプロ闘牛士免許も取得! 何もかもが突然うまく運び出したのです! ついに・・ぼくは1999年10月17日、 第2級格式闘牛場である ウエルバのラ・メルセ闘牛場から デビューすることが決定したのでした。 主催は1998年に発足されたウエルバ闘牛学校。 成績上位の者に試合出場機会が与えられ、 ぼくもそのうちの一人として大抜擢されたのです。 それまでのスペイン滞在期間、 合計してわずか1年半未満であった ぼくが勝ち獲った大チャンスでした。 またスペインのマスコミも大きく ぼくのニュースをとりあげてくれるのでした。 これまでのご褒美のように! 「日本人・濃野平は1万5千km彼方の 日本からスペインへやってきました! 闘牛士になる為に! ついに今度の日曜日、ウエルバでデビューです!」 ・・・ところが、 いくつもの大きな壁を乗り越えたはずであるぼくの前に、 さらなる試練が待ち受けるのでした・・・ ぼくはデビュー戦の三日前に、 トリゲーロスという町にある闘牛牧場で 練習用に牛を買いました。 デビュー戦の為に良い牛相手に 満足のいく実践練習をしたかったからです。 それまで牛を実際に仕留めた経験すら ありませんでしたし。 いくらなんでも仕留めの経験なしに デビューするなんて、無謀すぎる! という訳だったのです。 値段は10万ペセタ。 実はその時、ぼくの全所持金は 8万ペセタしかありませんでしたので、 ホアキンが2万ペセタ貸してくれたのです。 つまり・・ぼくはデビューの時、 「完全なる一文無し」だったのです(笑)。 まるで文字通り・・・ 失うものは何もない、とでもいうかのように! スペインのマスコミは、TV・ラジオ・新聞等で 全国的にぼくのデビューをとりあげましたが、 その注目の的となっていた日本人は、 この異国スペインでなんと 「華麗なる一文無し」だった・・・のです。 その牛は2歳牛とのことでしたが、 350キロはある代物でした。 草闘牛を除けば、ぼくはそれまでに これ程大きな牛と対峙した経験はありませんでした。 演技自体は、 牛に引っかけられたりすることもなく終わりました。 そして・・初めて経験する「仕留め」。 1発目、剣は良い位置に入りながらも、 深く刺さらなかった。 そして2発目・・・ ぼくは剣をまっすぐかまえて、 全力で牛に飛び込みました。 牛もぼくにむかってつっこんでくる・・・ 渾身の力をこめた剣先は牛の背骨に当たってしまい、 行き場のなくなった負荷の全てが ぼくの右肩にかかるのでした。 ぼくは数学が得意でないので計算はできませんが、 牛の体重が350キロ、僕のが58キロ、 いったいその時どのくらいの力が 僕の右肩にかかったのか・・・その瞬間、ぼくは 右腕が肩からもげてしまった、ような気がしました・・・ そして・・気が付くとぼくは牛にはね上げられ、 何度もコンクリートの壁に 叩き付けられるのでした。 目の前が徐々に暗くなっていき・・・ 音も聞こえなくなって・・・ 気が付くとぼくは車の助手席にいました。 頭からびしょぬれになっています。 多分、気絶したぼくの目を覚まそうと 誰かが水をかけてくれたのでしょう・・・ ホアキンが運転する車は ウエルバ市に向かって走っている。 トリゲーロスの牧草地帯に沈む夕日はいつ見たって美しい。 今日だって、こんな時だって、なぜか・・・ まったく涙腺がゆるむ程美しいぞ。 参ったな、右腕は動かないし・・・ それにぼくは気を失ったまま、 何度か激しく嘔吐したらしい・・・ 3日後は待ちに待ったデビュー戦なんだから、 大した怪我じゃなきゃいいのだけれど・・・ しかしなんだって右肩はこんなに痛むのだろう? ウエルバ市内の救急病院に到着すると、 ぼくは車椅子に乗せられ、 ただちにレントゲン室へと運ばれました。 泥にまみれた乗馬服姿のぼくは、 他の患者さんたちの目には 落馬でもしたように映ったのでしょうね、きっと。 医者の診断はぼくのド肝を抜くには十分なものでした。 「すぐに入院してもらわないと・・・ 明日入院して、来週初めに手術しますから」 「え?入院・手術って、そんな・・・ ぼくは3日後に闘牛に出るんです。 今度の日曜日にデビューするんですよ?!」 「背中から胸まで大きく切り開きますので、 手術後1ヶ月間は入院して頂きますよ。 退院後も半年はリハビリに専念してもらいます。 今年は闘牛なんて考えないことですね、残念ですが」 「日曜日・・・無理ですか? 試合出るの・・・?」 「・・・」 「そんな馬鹿な! ぼくは絶対にそんなことは認めない! 痛み止めを打ってもらうとか・・・ 何か手があるはずだ!!」 「・・・駄目ですね」 「不可能、ですか・・・?」 「不・可・能・です!」 (つづく) |
2003-05-07-WED
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