モノポリーエッセイ

第1回

【世界チャンピオンになっての感想】


――まずは、優勝おめでとうございます。

岡田
ありがとうございます。

――優勝なさってから、
  多くのインタビューを受けられたと思うんですが、
  どんな質問が多かったですか。

岡田
そうですね。
やはり、
「優勝しての感想は」
「決勝戦の作戦は」
「印象に残った相手プレーヤーは」
なんかが多かったです。
特にいろいろな国のメディアのインタビューを
受けましたので、
「わが国の○○さんのプレイは?」
みたいのもお約束でしたね。

――優勝しての感想はいかがですか(笑)。

岡田
多くのインタビューで、
だいたい決まったお答えをしていました。
まず、
「私が勝ててラッキーでした」
そして、
「日本は競技モノポリー(※1)が盛んなので、
 私が優勝することで
 日本の実力を示すことができてうれしいです」
(特に1998年から2000年までの
 4回の世界選手権大会では、
 日本代表は岡田さん百田さんの2回の優勝のほか、
 1回の準優勝(これも百田さん)を果たしている)
と答えていました。
ハズブロー(※2)のスタッフなども、
アジアや日本の強さ(※3)に
ちょっとだけ注目してくれているようでした。

※1 競技モノポリー
   日本では各地にモノポリーサークルがあり、
   モノポリーフリークが定期的に集まって、
   成績を競いながらモノポリーをしています。

※2 ハズブロー
   米国ハズブロー社。モノポリーの版権元。

※3 アジアや日本の強さ
   日本の世界選手権大会での活躍は
   言うまでもないですが、
   前回の1996年の世界選手権大会優勝は、
   香港のウーさん。
   そして今回も香港代表のスティーブンさんが3位。
   (3位といっても世界選手権は
    資産だけを評価しますので、
    決勝戦で負けたかたは
    全員決勝戦の資産$0ということで
    準優勝として表彰されるようです)

――モノポリー世界選手権大会は
  取材陣も多かったんじゃないですか?

岡田
もちろん、世界ナンバーワンの
ボードゲームの世界大会ですから、
テレビ取材も各国から来ていますし、
すごい盛りあがりでした。
テレビカメラの「放列」という状態なんですけど、
日本の感覚ではちょっと考えられない世界なんです。
地元のカナダが当然一番取材陣も多くて、
次にアメリカ・ヨーロッパという感じでした。
そんな中で日本からは取材もなくて、ちょっと残念でした。
残念ながら先進国の中で
日本が一番「モノポリー」の認知度が低いんですよね。

――日本が一番モノポリー強いのにねえ(苦笑)。

岡田
まったくです。
でも、そういう北米、ヨーロッパ中心に
注目していた取材陣も、
大会が進んで1回戦を終わったころには、
「アジア勢が好成績だ」ということで、
ちょっと注目してくれたみたいです。

【モノポリーとの出会い】

――では、少し話の角度を変えて、
  岡田さんとモノポリーの出会いなどをうかがいます。

岡田
小学生くらいの頃から、
ボードゲームが好きだったんですが、
小学3・4年生のころ、
「ペトロポリス」という石油採掘のゲームを
友人とよくやっていたのを覚えています。
結構モノポリーに似たところのあるゲームでした。
その頃に、そういうボードゲームの一つとして、
モノポリーとも出会っていた、という感じです。
ただ、「のめりこむ」というほどではなかったですね。

――モノポリーにのめりこむようになったきっかけを
  教えてください

岡田
ちょうど今から3年前になりますが、
1997年のモノポリー日本選手権の
東京予選に出場したんです。
土曜日にテレビを見ていたところ、
糸井重里さん(※4)が「王様のブランチ」
というテレビ番組に出演されていまして、
その中でモノポリーの東京予選の
紹介をなさっていたんです。
「ゲームで世界一を目指す道があるのか」ということで、
早速事務局に電話をしまして、大会に出たわけです。

※4 糸井重里さん
   われらが糸井さんは、日本モノポリー協会会長です。
   1992年のモノポリー世界選手権大会には、
   日本代表として出場されています。

――その時の成績はどうだったんですか?

岡田
300人くらい参加の大会だったんですが、
ちょうど150位と、真ん中の成績でした。
仲間内で遊ぶ時とは違って、大会では、
「手も足も出ない」みたいなゲームもあって、
とても悔しかったんです。
それで東京予選の会場で
「横浜モノポリークラブ」(※5)のパンフレットを
いただいて、
早速翌週の横浜モノポリークラブに参加しました。
そうしたらそこに野中さん(※6)がいた、
みたいな(笑)。

※5 横浜モノポリークラブ
   横浜市近郊のモノポリーフリークが集まる
   モノポリーサークル。
   神奈川県川崎市で月1回の例会を
   中心に活動している。
   1987年の創立で、
   本格的なモノポリークラブとしては、
   日本最古のサークルとされている。
   YMCと通称されます。

※6 野中さん
   この話の聞き手・構成の野中俊一郎さんのこと。
   横浜モノポリークラブの幹事を務めています。

――横浜モノポリークラブとかに行くようになって、
  どうだったんですか?

岡田
なかなか、思うようには勝てずに、
特に最初の1年間くらいは試行錯誤の連続でした。
そうこうしているうちに、面白くなってきて、
モノポリー仲間も増えて、
ゲーム数がものすごく増えました。

――今はどのくらいのペースで
  モノポリーをしているんですか?

岡田
数えていないんで、はっきりはわからないんですが、
年間100ゲーム以上は間違いなくやっていますね。

――そうしてキャリアを積まれて、
  2000年の日本選手権大会で
  優勝なさったわけですが、
  それまでの、大会とかモノポリークラブなどでの実績は
  どうだったんですか?

岡田
優勝とかそういうのはないんです(笑)。
モノポリー名人戦で
「団体優勝」したことはあったのですが。
モノポリー大会の個人戦ですと、
決勝テーブル(※7)に出たことがあったか……
程度だったんです。
特に、日本選手権の東京地区予選(※8)は苦手ですね。
何せ、今まで一度も東京地区予選を
通過したことがないですから(笑)。

※7 決勝テーブル
   上位5名ないし6名で、
   その大会の優勝者を決める決勝戦。
   大会参加者(数十名〜百数十名)の中の
   ベスト5、6ですから、
   そこに出るだけでも実力者のステータスになります。

※8 日本選手権大会の地区予選
   日本選手権大会は、
   東京・大阪・福岡・札幌・名古屋の各地で
   地区予選が行われ、
   それぞれの上位者が決勝大会に進みます。
   その気さえあれば、
   何ヶ所の地区予選に出てもよいので、
   地区予選巡りをするかたもいらっしゃいます。
   岡田さんは都内にお住まいですが、
   1998年度日本選手権では大阪地区予選、
   1999年度には名古屋地区予選
   でそれぞれ、予選通過されています。

――しかし、実績はともかく(笑)
  昨年辺りからは「岡田さんは面白いモノポリーをする」
  ということで、
  注目していらっしゃる人もいらっしゃいましたよね。
  それで、2000年の日本選手権大会は、
  どうやって決勝大会に進まれたんですか?

岡田
よく参加しているベイサイドモノポリークラブ(※9)
というゲームサークルから、
1名の代表が決勝大会に出場できるという
特別な「枠」がありまして、
私がその代表になった、というわけなんです。
ベイサイドモノポリークラブの年間優秀成績者や、
ベイサイドモノポリークラブ主催の
モノポリー大会の勝者、
ベイサイドモノポリークラブの各タイトルホルダーで
代表決定戦を行って、私が勝ったんですが、
私は「モノポリー王」という
ベイサイドモノポリークラブで1年間に最も多く
モノポリー勝ち(※10)した人ということで
その代表決定戦に出させてもらいました。
でも、1年間でモノポリー勝ちがたった4回。
そんなんでいいのかっていう気も
しちゃったんですが…(笑)。

※9 ベイサイドモノポリークラブ
   千葉県市川市で月1回の例会を中心に活動している
   モノポリーサークル。BMCと通称される。

※10 モノポリー勝ち
   自分以外の全員を破産に追い込む勝ち方。
   本来モノポリーは
   モノポリー勝ちになるまで行うのだが、
   大会などでは運営上(時間など)の都合もあり、
   90分経過時点での資産で順位をつけることが多い。
   

(つづく)

2000-12-13-WED

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