第8回
【世界選手権予選3回戦】
――さて、2回戦が終わったところで、
岡田さんの資産は、
「次のゲームに破産すると
決勝戦に出場できるかどうか微妙」
という数字になりましたね。
3回戦目は4人ゲームで、
ルクセンブルグ、オランダ、プエルトリコ、の代表が
相手だったわけですが、どんな作戦で臨んだんですか?
岡田
おっしゃるように、
「3ゲーム目は大勝する必要はないけど、
資産は積み増したい」
という状態でした。
3人の相手の中では、オランダ代表が、
それまでの予選2試合で
資産$9000くらいをあげていて、
決勝戦に届く可能性がありましたので、
「オランダの大勝を阻止しつつ、資産を残す」
という作戦でゲームに臨みました。
――実際のゲーム展開はどうだったんでしょうか?
岡田
一応警戒していたオランダ代表は、
4人ゲームなのに権利書を全然買えずにつらい状態でした。
ダークブルー1枚と他に1枚くらいしか
権利書を買えなかったと思います。
その反対に、私と、出場者最年少の11歳で、
プエルトリコの可愛い女の子(ステファニーちゃん)が
権利書をどっさり買えまして、
二人でダークパープル、ライトブルー、ライトパープル、
レッド、電力水道の5色あるような状態になりました。
プエルトリコ代表は、その中で
レンタル料が一番高く見込める場所、
「レッド」をどうしても欲しい、ということだったので、
結局、プエルトリコが、
ダークパープルとレッドと電力水道、
私がライトブルーとライトパープルを揃える交渉が
まとまりました。
――それで、その後はどうなったのでしょうか?
岡田
プエルトリコ代表は、
お金があれば限界まで家を建てるスタイルで、
レッドに家を3軒ずつ建てました。
一方、私はライトブルーにホテルを建て、
少し余裕があり、またライトブルーの方が
手前にいるプレーヤーの多い状態でしたので、
レッドの経営は結構厳しいかもしれないと思っていました。
ところが、ゾロ目(※37)で進んでいって
レッドに止まった人がいたり、
私自身もレッドに止まったりして、
「レッドの家が崩れる」という感じでもなくなりました。
ただ、私のライトブルーのホテルにも、
予想以上に皆さん止まってくれて、
私も割と安泰な状態になりました。
※37 ゾロ目
2個振ったサイコロが両方とも同じ目になること。
ゾロ目のときは、
そのプレーヤーのサイコロ番が続くので、
思いもよらないところまで進んでしまったりします。
序盤はゾロ目はありがたいですが、
終盤はつらいです。
――それでは、ライトパープルに追加経営をしたんですか?
岡田
いえ(笑)。
お金はそこそこあったんですが、
「勝たなくてもいいから破産はしたくない」
という状態だったものですから、
家4軒ずつになったレッドに、
「連泊しても家が崩れない」だけの現金が
たまったところで追加経営しようと思っていたんです。
それが、なかなかそういう機会がありませんでした。
終了間際にライトブルーにまとまったレンタル料が
入りまして、私は現金が$4000くらいなり、
それで資産を数えてみたら、
私が勝っていたという感じでした。
――すごいですね。
レッドに家12軒を相手に、
ライトブルーのホテルだけで勝ってしまったんですね!
岡田
普通だったら、勝てるわけはないんですが、
ライトブルーに予想以上にお客さんが来たというのと、
あと外国人全般に言えることなんですが、
お金があっても追加経営というのをほとんどしないので、
それでなんとか勝てたということもありますね。
【決勝戦出場が決まって】
――結局、岡田さんは$6906の資産で3回戦も1位。
3回戦の合計$22435で、堂々3連勝。
予選トップの成績で
決勝戦に進出することになりました。
この後、何かセレモニー的なものはあったんですか?
岡田
まだ、この段階では公式な成績発表というのはなくて、
皆さん自分の成績が
わからなかったりするみたいなんですが、
決勝戦に出場するメンバーには
こっそりそれが伝えられました。
というのは、翌日の決勝戦は
フォーマルな服装で行うんですが、
そのためのタキシード・くつ・
シルクハットの用意のための採寸などを
行う必要があるのです。
――当然、そういう服装は用意してもらえるわけですね?
岡田
そうです。
――決勝戦出場選手が発表されたりしたのは
いつなんですか?
岡田
予選が終わった日の夜に表彰式がありまして、
その場で発表されました。
決勝戦に出場できなかった各国代表全員に、
おそらく銀メダル(※38)が渡されまして、
そのほかにも特別賞が表彰されました。
例の社交的な前回チャンピオン「ウーさん」や、
プエルトリコの可愛い女の子も
特別賞で表彰されていました。
※38 おそらく銀メダル
百田さんが世界選手権大会に出場されたときは、
決勝進出者には銀メダル、
予選敗退者には銅メダルだったそうなので、
ひょっとしたらそのシステムだったかもしれない
とのこと。
【決勝戦の舞台】
――さて、いよいよその翌日に
2000年モノポリー世界選手権の決勝戦が
行われたわけですが、
その舞台の様子はいかがだったんでしょうか?
岡田
予選のときは、いってみれば通常の会議室が多少きれいになった、
程度だったんですが、
決勝はきちんとショーアップされており、
舞台装置が整ったホールでした。
バグパイプ奏者などもおりまして、
選手入場のときなど
なかなかにぎやかなことになっていました。
――見学とかはできるような状態だったんですか?
岡田
決勝戦のテーブルのまわりは、
報道陣が取り囲んでいまして、
報道陣でない各国の代表は
ゲームを直接見られない状態でした。
ただし、決勝戦はボードの真上に
テレビカメラが設置されていまして、
その映像を大画面で観戦するようになっていました。
もっとも、日本から来てくださった応援団は、
うまく報道陣にまぎれて
他国報道陣との場所争いを繰り広げて、
決勝戦の記録などを写真やメモで取ってくださいました。
――報道陣の数はかなりのものだったんでしょうか?
岡田
とても日本の感覚では想像できないほど大勢いました。
欧米先進国ではほとんどの国の
テレビを含めたメディアが来ていましたので、
先進国で報道が来ていないのは、
ほとんど日本だけという感じでした(苦笑)。
もうちょっと、日本の皆さんも
モノポリーに関心を持ってもらえるように
工夫しないといけませんね。
――では、決勝戦のメンバーですが、
予選1位($22435)が岡田さん、
予選2位($18865)が
香港代表のSteven Chu Chun Hinさん、
予選3位($17427)が
ドイツ代表のHans-Gunther Meyerさん、
予選4位($17318)が
ハンガリー代表のTamas Bukovskyさん、
予選5位($17235)が
スコットランド代表のMarilyn Elliottさん、
でした。
このメンバーで印象に残ったかたはいましたか?
岡田
ドイツ代表は1988年の百田さんが優勝された
ロンドンの世界選手権大会にも出場していまして、
相場観とかも含めて結構強かったですね。
ただ、外国人全般にそうなんですが、
追加経営は苦手みたいで、
その辺の技術ははっきりと
日本のプレーヤーの皆さんのほうが上ですね。
あと、香港代表は前回チャンピオンのウーさんに
モノポリーを教わったみたいですが、
ウーさんより強そうでした(笑)。
――決勝戦の戦略とかは考えていたんですか?
岡田
はい、やはり決勝戦なんで、
「いくらリスクがあっても
勝負にいっていい結果を呼びこもう」
と思っていました。
結果的には私はダークブルーという
リスキーな色を経営することになったんですが…
――岡田さんは予選1位通過ですが、
スタート順は1番目だったんですか?
岡田
それが違うんですよ。
やはり予選と同じように席順は最初から指定してあり、
サイコロを振って1番スタートを決めたら
後は時計回りでした。
――駒は何を選んだんですか?
岡田
私は予選からずっと「クマ」の駒を選んでいたんです。
それで、決勝出場選手紹介のときに、
「クマの駒を選びます」といったところ、
スコットランド代表の女性も
「クマがいい」ということになりまして(笑)。
――で、相手に譲ってあげたんですか?
岡田
いえ(笑)。
サイコロを振って決めまして、
あっさり負けて別の駒になりました。
譲ってあげようとも思ったんですが、
気の利いた英語が浮かばなかったもので(苦笑)。
――このメンバーを見ると、
スコットランド以外は英語圏ではないですね。
岡田
そうですね。スコットランド代表以外は
全員通訳がつくという状態なので、
ネイティブの人同志でバンバン交渉がまとまる、
ということもなく、その点ではちょっと安心しました。
――決勝戦は、時間制限はあったんですか?
岡田
いえ、決勝戦はデスマッチで、
時間制限はありませんでした。
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