某日。
ガリガリガリガリ。バリバリバリバリ。
青山のとあるビルに、爆音が轟いていた。
そう、音は、
東京糸井事務所が引っ越すフロアーから鳴っている。
内装工事がはじまったのだ。
視察に訪れた、引っ越し番長、中林は
眼前の光景にわずかな不安を覚えた。
むろん、工事は予定通りに進行している。
しかしながら、自分が働くことになるオフィスが
瓦礫の山と化している状況は、
少なからずショックである。
エレベーターホールを挟んで北側のフロアは
天井がぶち抜かれ、古いエアコンが撤去される。
詰まれた瓦礫は見る間に撤去されていく。
急ピッチだ。
一方、南側のフロアは、
大きな解体工程がないため落ち着いている。
南側のフロアから粉塵が入り込まないよう、
ビニールシートで仕切られている。
組み立て用資材も準備されているようだ。
広いフロアは、妙にがらんとした印象がある。
北側のフロアの一角では、
サッシが細かくはめ込まれている。
完成形がどうなるか、
説明を受けた中林にもうまく想像ができない。
すでに新しい壁がはめ込まれている一角もある。
着々と工事は進行している。
陽が傾いたが、照明のもと、工事は続く。
このぶんなら、大丈夫だ。
引っ越し大臣、中林は、ホッと安堵した。
某日。
現在、糸井事務所のある明るいビルの屋上で、
なにごとか叫ぶ男の姿があった。
「どうしてですか!
どうして金魚をつれていけないんですか!」
口角泡を飛ばしている若い男は、
金魚水槽管理係の西田である。
その抗議を背中で受けているのは、
金魚コンテンツを担当する永田であった。
「いっしょに青山に行きましょうよ!
金魚だって、仲間じゃないですか!」
「‥‥‥‥」
「水がひけないくらい、なんとかしますよ!
ぼくがバケツでやればなんとかなります!」
「‥‥‥‥」
「なんとか言ってくださいよ、永田さん!」
ガスッ!
振り向きざまに永田は西田を殴った。
むろん、グーで殴った。
腰の入った、いいパンチだった。
内側からえぐるような、クリティカルなパンチだった。
西田はもんどりうって屋上のコンクリートに転がった。
「きいたふうな口をきくな!
それがどれだけの重労働がわかっているのか!」
永田は西田を見下ろしながら強く言った。
さすがに多少ひるんだが、
それでも西田は口元の鮮血をぬぐいながら言い返した。
「がんばります! 徹夜してでもやります!」
「バカヤロウ!」
永田は眼下の西田を蹴飛ばそうとした。
いわゆるサッカーボールキックである。
しかしながら西田は若い。
持ち前の反射神経で、サッとそれをかわすと、
永田の右足は空を切り、
勢いあまって永田は仰向けにひっくり返った。
ガンという鈍い音は、
永田が後頭部をしたたかに打った音である。
すぐさま永田は腹筋をつかって
ジャッキーチェンばりにぴょんと起き上がり、
西田を般若のごとき形相でにらみつけながらこう言った。
「徹夜で水槽の水替えをするだと?
おまえ、糸井事務所に、なにをしにきてるんだ?
金魚水槽の水替えに、
若い人材の時間を奪うわけにはいかん!」
「‥‥‥‥」
それだけ言うと、
永田は屋上から去っていった。
後頭部を、さすっていた。
西田はなにも言えなかった。
某日。
引っ越し大臣、中林は、
ファイルを広げてため息をついていた。
事務所の内装を見届けるだけが
引っ越し大臣の仕事ではない。
職場の移転には、さまざまな雑務がつきまとう。
中林が広げているのは、名刺のファイルであった。
新しい名刺をつくらなくてはならない。
引っ越しの案内状も出さねば。
デザインを担当している山口と石川も集まり、
さまざまな名刺を囲んで打ち合わせがはじまる。
新しいオフィスにぴったりの名刺とは?
オリジナリティのあるもののほうがいいか?
それともオーセンティックなもののほうが?
形状は? 色は? 一種類でいいのか?
議論は深夜まで及んだ。
そして、おおかたの意見が出尽くしたころ。
名刺デザインの担当者である山口が
突然、イスを蹴飛ばして立ちあがった。
そして、中林と石川に向けて言った。
「あ、穴をっ!」
あまりの非常識な行動に、ふたりは息を飲んだ。
しかし、それをまったく気にせず、山口は叫んだ。
「め、名刺に、穴をっ!
名刺に穴を空けたいんです!」
中林と石川は、しばし沈黙を続け、
やがて、ふたり同時にこう返した。
「‥‥なんで?」
なんで、って言われても‥‥
山口は、口の中でモゴモゴとつぶやきながら、座った。
夜が、ふけていった。
某日。
内装工事を見学した日から、数週間が経っていた。
混乱の極みにあったフロアは順調に工程を消化し、
「新しいオフィス」としての顔をのぞかせつつあった。
総務の元木が、
図面を片手に工事の様子をチェックしている。
つまり、チェックできる状態まで、
順調に進行しているということだ。
ようやく、ここまで来た‥‥。
安堵する中林と元木。
ふたりは、工事を確認したあと、
青山のこじゃれたバーで軽く乾杯‥‥
したいところだったが、
残念ながらそれどころはない。
足早にふたりは表参道の駅に向かった。
明るいビルに戻ると、さらなるうれしいニュースがあった。
案内状と、名刺の見本が仕上がっていたのだ。
どうですか、いいでしょう、と山口が胸を張った。
なるほど、たしかにいい仕上がりだ。
紙はやや厚め。
コースターを思い起こさせるような質感。
表面には各自の名前がやや大きめに入る。
角は丸くして、ポップなイメージ。
裏面は、目にも鮮やかなイエロー。
そこに白抜きで、
「ONLY IS NOT LONELY」の文字。
うん、これはいい、と中林は思った。
しかし、ひとつ気になることがあった。
どうにもそれがこらえきれず、
中林は横で微笑む山口に向かって、こう訊いた。
「‥‥で、この穴、なに?」
山口の微笑みが凍りつき、
またしても彼はモゴモゴとつぶやいた。
「‥‥穴は、穴ですよ。
ほら、糸井事務所って、
ひとつのプロジェクトに何人も関わるから、
先方に、糸井事務所の名刺がたくさん溜まるでしょう?
そのとき、こうして、
リングでまとめたりできるんですよ」
説明を受けて、中林は言った。
「‥‥‥‥あ、そう」
そこにどやどやと、ほかのスタッフが集まってきた。
みんな、新しい名刺を見て、はしゃぐ。
わあ、いいね、という賛辞があちこちであがる。
しかし、やがて、彼らは口々に、
山口に向かってこう問いかけるのだった。
「‥‥で、この穴、なに?」
ちなみに、事務所の移転を知らせる
案内状のほうも仕上がっていた。
片面には糸井重里からの挨拶が。
そしてもう片面には事務所への地図が印刷されている。
ちなみに、この地図の、事務所周辺の部分は
取り外せるようになっていて、
それが事務所全体の名刺としても
機能するようになっている。
さあ、いよいよ、引っ越しだ。
中林が席に戻り、案内状を送る人たちの
リストアップをはじめようとしたとき、
オフィスに取材から戻った糸井重里の声が響いた。
「おぉー、名刺ができたのか、いいじゃないか!
それにしても、山口! この穴はなんだ?!」
(つづく‥‥)
2005-11-25-FRI
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