(前回につづき、中沢さんの文章を掲載いたします)
真っ暗な洞窟の奥で、
イニシエーションを受けた男の組合結社が、
なにかをしています。
そのとき、人類の心には、
いったいどんなことが起こっていたのでしょうか。
そのことを探っていくと、
私たちは芸術発生の謎についてばかりか、
資本主義の発生ということについても、
決定的な理解を得ることができるかも知れません。
それはいったいどんな出来事だったのでしょう。
真っ暗闇の世界では、いままで目で見ていた
外の世界というものが消えてしまいます。
外の世界で見ていた
あの花も、岩も、木も、鳥も、動物たちも、
それに人間たちの姿も、
いっさいが見えなくなってしまいます。
そして
自分の心の内面の世界をのぞいている
心の働きだけが残されます。
内面の世界が広がっていきます。
私たちの直接の先祖である
新しい人類(ホモサピエンス・サピエンス)の
心というものが生まれた根本の場所を、
この洞窟のなかに集った人たちは、
驚きとともにのぞき込んでいました。
十万年ほど前のアフリカに、
それまで生きていた人類とは
ちがうタイプの人類が生まれています。
新人と呼ばれるその新しいタイプの人類は、
いったいどこが、それまでの人類(旧人)と
ちがっていたのでしょうか。
新人も旧人も外見はそれほどちがっていません。
しかし大脳の内部のニューロンの構造に、
決定的なちがいが発生していました。
それまで接続ができなかった
ニューロン同士のあいだに、
新しい接続のネットワークがつくられ、
それによって人類の心に
それまでなかった新しい領域が
出現するようになったのですね。
ニューロンの構造に根本的なつくりかえがおこって、
それまでは間に壁があって
おたがいの交通がおこらなかった
脳の働き同士のあいだに、通路が発生したおかげで、
私たち人類の心の働きが起こるようになりました。
多次元的に複雑に結び合った
ニューロンの通路をとおして、
「心」としかいいようのないなにかの働きが、
縦横無尽に流動しはじめます。
その結果、それまでは
別々の領域に分離されていた心の働きが、
ひとつにつながって、
そこに比喩や象徴を生み出すことのできる、
異質なものの重なり合った
「表現」をおこなえる心がつくられるようになりました。
そしてそれといっしょに、
芸術が発生したのです。
「心の流動体」がこんなふうに
生命体のなかを自由に動き回れるような状態は、
それまでこの地球上ではおこらなかったことです。
「心」はどんな原始的な生命体であっても、
その身体のなかですでに活動をおこなっています。
いや、というよりも、
生命をもったもの身体をなかだちにして、
「心」というものが
この現実世界で働きを見せるようになった、
といったほうがいいでしょう。
しかし、新人とも呼ばれる
現生人類が出現する以前には、
もともと自由な流動性を特徴としている
「心」というものが、
こんなふうに生命体の内部で
自由で多次元的な活動をおこなうというような事態は、
おこらなかったようです。
新しい人類が出現するまで、
自然界にはこういうことは起こりませんでした。
自然のなかの生き物たちは、
長い進化の過程をつうじて、
しだいしだいに脳を発達させてきました。
しかしどこまでも環境世界と
自分の生命活動ができるだけ合致できているような、
適応行動ができるようなかたちで
脳の構造を進化させてきました。
そうでなければ、
地球上に生き残ることはできなかったはずです。
動物ばかりではなく、
あらゆる生命には「心」があります。
しかしその「心」は現実世界の構造と、
なんらかのレヴェルで
重なりあうような働きをしています。
つまり動物などの行動を見ているとわかりますように、
私たちがおこないがちな不自然な行動だとか、
妄想に突き動かされた行動などをしません。
一見不自然な行動をしているように見えるときでも、
大きな視点に立ってみると、
ちゃんと現実世界の因果の法則に
したがっているのがわかります。
鳥の心に妄想はないのです。
人類以外の生物は妄想をいだかない、
ということができるでしょう。
妄想とは何かというと、
心の内面で考えたことと外界の現実が、
対応関係をみいだせない状態のことを言います。
頭のなかに発生する
イメージや思考が過剰になってしまって、
その対応物を
外の世界にみいだせなくなってしまった状態です。
その結果、外の現実世界では
ぜったいに起きないこと、
起こりえないだろうと思われることが、
脳のなかでは起こるようになります。
私たちには
こういうことはよくおこりがちですが、
鳥や動物では起こらないのです。
彼らは進化の過程で、
自分たちの感覚器官がとらえている
外の世界にある現実と
自分の心のなかに起こっている動きを、
できるだけ同じ型(ホモモルフィズム)に
合わせようとしています。
その合わせ方は、
生物ごとにみんなちがっています。
現実と心を働きを対応させる
「射影」関係は、
無数に変化していくことができますが、
それらのあいだには
ちゃんとしたつながりがあって、
どれもがなんらかのやり方で、
現実世界の構造をなぞっています。
そこでたとえば、
ミミズはミミズの世界という
小さい限定をおこなって、その世界のなかで
まちがいなく生きてこられたわけです。
ところが私たちの直接の先祖である人類の心では、
ほかの生物にはおこらなかった
爆発的な事態がおこって、
大脳の構造に根本的な変化が生じて、
多次元的に結合したニューロンの通路をとおして、
流動的な「心」が縦横無尽な
自由な運動をはじめるようになってしまったんですね。
そうなりますと、
外の世界におこっている現実と
ヒトの心の内面世界とが
まっとうな対応関係を持たないでも、
私たちはこの心の内面生活というものを
持つことができるようになります。
ここで私たちが
とりあえず「流動的な心」と呼んでいるものは、
心の働きの異なる領域を自由に横断して、
いくつもの領域にまたがる作業を
こなしていくことができるわけですから、
それ自身にはきまった属性というものがありません。
つまり流動的な「心」にはもともとはかたちもなく、
色もなく、たとえて言えば光のようなものです。
まばゆい純粋光のようなものです。
そういう色もなく、かたちももたないものが、
私たちの心の中をいまこの瞬間にも
駆け抜けているのです。
多次元的で、属性をもたない、
自由な流動性を特徴としている「心」というものが、
生命体の中にはじめて出現したと言ってもいいでしょう。
真っ暗闇の洞窟の中で、
新しいタイプの人類が
自分の内部にのぞき込んでいたのは、
大脳の内部を猛烈な早さと強さをもって流動している、
この「心」のむきだしの姿だったのではないでしょうか。
真っ暗闇に長時間いると、
視神経が自分で振動をはじめて、
暗闇の中なのに眼の内部から
あふれんばかりの光が出てくる
「内部視覚(エントオプティック)」
という現象が観察されています。
しかもあふれてくる光には、
きまったかたちがそなわっています。
そのかたちをもった光の動きを、
自分の内側に「見ている」と、
それが流動する「心」の運動を、
直接的に映し出しているようにも思えてきます。
つまり洞窟の中に入った組合結社の男たちは、
自分たちホモサピエンス・サピエンスの
「心」の本質をのぞき込んでいたわけです。
その「流動する心」は、
人類の心のさまざまな働きの
おおもとをなすものですが、それ自体では
あまりに強力で高次元的で無定形なものなので、
洞窟の外にくり広げられている現実世界には、
そのままでは生かすことができません。
それどころか、共同体の生活や現実生活の営みを
破壊してしまう力を秘めています。
その頃はまだ、私たちが知っているような
「神」は存在していなかったでしょうが、
洞窟の中で人類は、日常的な心の作用を越えている
「超越的なもの」が、
自分たちの心の内部にあることを
発見していたのではないでしょうか。
(中沢さんの文章は、次回につづきます)
2005-10-31-MON