「ほぼ日」の父。『情報の文明学』を書いたウメサオタダオの見ていたもの。

ほぼにちわ、「ほぼ日」の菅野です。
ゴールデンウィークのあいだ、
糸井重里+数人の乗組員は
国立民族学博物館で開催されている
「ウメサオタダオ展」に行ってまいりました。
この訪問の機会をくださった
雑誌「考える人」
新潮社編集部のみなさんもいっしょです。

国立民族学博物館は、大阪は吹田の
岡本太郎さんの「太陽の塔」のそばにあります。
(「裏手」みたいな位置関係です)
梅棹忠夫さんは、この
国立民族学博物館の初代館長さんでした。

梅棹さんは、フィールドワークを軸においた
生態学、民族学、比較文明学の偉大な先駆者として
知られる人ですが、
我々「ほぼ日」の乗組員にとっては、
著書『情報の文明学』
とても親しみのある方です。
この『情報の文明学』は、糸井と我々が
『「ほぼ日」の父』と(勝手に)呼んでいる
いわば、「ほぼ日」乗組員の課題図書なのです。
新しく入ったスタッフに、この『情報の文明学』を
糸井が配ったこともあります。
(ちなみに『「ほぼ日」の母』の書は
 山岸俊男さんの『信頼の構造』

この本が梅棹忠夫さんによって
書かれたのは、1962年。
糸井は、文庫化された本の帯に
「40年前に書かれた『知の大予言』。」
という言葉を寄せました。

課題図書ですから、私も読みました。
インターネットもなかった、
カラーテレビが出はじめだった時代に、
よくこんな‥‥と思えるようなことが
次々に書いてありました。
そして、梅棹さんの考えの延長線に
これから行く先を感じました。
特に、生物の進化の過程と
産業の移り変わりの関係は、
「ほぼ日」の社内ミーティングでも
糸井がたびたび紹介してくれました。

さて、この「ウメサオタダオ展」は、
2011年6月14日まで開催されています。
梅棹さんのたくさんの考えと
活動の記録を自由に見てまわることができます。
ご興味ある方、ぜひぜひお出かけください。
アクセス等、くわしくはこちらをどうぞ。

ここでは、
実行委員で国立民族学博物館教授の
小長谷有紀さんのご案内のもと、
我々が見てきたことを、
ほんの少しだけご紹介します。

「梅棹忠夫の脳のなかを見るような感じで
 ごらんください」
小長谷さんは、こうしてときどき
場内のギャラリートークをなさっているそうです。

展示会場には、
調査の現場で梅棹さんが克明につけた
フィールドノートや発見の手帳、
考えを整理するためのカードなど、
梅棹さんの「知的生産の道具」が並んでいました。
原稿を一気に書きあげるためにあみだした
「こざね法」という、カードを使った記述方法は、
真似したくなります。
いろんな発想を並べ替え、
(アイデアのカードをホッチキスやクリップで
 実際にとめていらっしゃいます)
考えを組み立てて文章化していくんですね。

「発見とは突然やってくるものである」
と梅棹さんがおっしゃっていたことを示すように、
天井からは、梅棹さんの言葉が
降ってくるみたいに展示されています。
こちらは、梅棹さんの書斎机です。

つねにきっちりと
「ものは直角に」置いてあったそうです。
メモもきっちり。
血液型はA型です。

切符も取ってありますし、
調査に関わることは
手紙も封筒もすべてきれいにファイリング。
「異常な書きつけ魔です」と
案内してくださった小長谷さんも
おっしゃっていました。

梅棹さんのフィールドノートの原則は、
とにかく「文章にすること」だったそうです。
なぜなら、現場で取ったメモが単語だけだった場合、
ひと晩たてば自分でも
何を書いていたかわからなくなるからです。
「明日の自分は他人だと思え」が
信条だったと、小長谷さんはおっしゃっていました。
そして、メモに書いたものは安心して忘れていい、
はじめから記憶しようという努力はあきらめよ、
というお考えでした。

現場で得た記録や着想が
いつでも新鮮に取り出せるように、
分類と整理に
これほどまでに情熱を注いでこられたのでしょう。

この展覧会に訪れた小中学生に人気なのが
「コンニャク情報論」のコーナーです。

展示の真ん中に、模型のコンニャクが
「でーん」と飾ってあります。不思議です。
この展示に記されている梅棹さんの言葉を
ご紹介します。


情報というのはコンニャクのようなもので、
情報活動というのは、
コンニャクをたべる行為に似ています。
コンニャクはたべてもなんの栄養にも
ならないけれど、
たべればそれなりの味覚は感じられるし、
満腹感もあるし、消化器官ははたらき、
腸も蠕動運動をする。
要するにこれをたべることによって、
生命の充足はえられるではないか。
情報も、それが存在すること自体が、
生命活動の充足につながる。
情報活動が、べつになにかの役にたたなくても、
それはそれでよろしい。
世のなかには、なんにもならない情報が
無数にある、それでいい、というわけです。

(「著作集」第14巻 108ページより)

「それはそれでよろしい」
生の声で聞いてみたかったです。

ポナペ島からはじまり、
モンゴル、北京、インド、アフガニスタン、
タイ、インドシナ、ビルマ、東パキスタン、
ネパール、タンザニア、ロシア、ヨーロッパ‥‥。
数えきれないほどの国々をまわった
梅棹さんのノートには
ほんとうにさまざまなことが記してあります。
こちらはなんと、
鳥の声を楽譜であらわしていらっしゃいます。

そしてこちらは、うさぎの足跡の図解。
これは論文の資料のために
作成されたものだそうです。
そして、おびただしい量のスケッチ。
地図を外国から持ち帰るために、
「スパイ活動」と誤解されるのを避けるため、
裏面に動物の絵を描いて分解し、
日本に持ち込みました。
ほんとに、さまざまなものが
展示してあります。
そのどれもが、とてもユニークで、
じっくりと見ていたくなります。

では最後に、これをごらんにいれましょう。

これは、1970年に開催された
大阪万国博の
開会のあいさつ文の草稿です。
あいさつされたのは
梅棹さんではありませんが、
その台詞(台本)を考えたのが
梅棹さんだったそうです。

みなさん、世界のみなさん。
世界のみなさん。
みなさん、世界のみなさん。
こんにちわ、みなさん。

出だしの「呼びかけ」だけで
ものすごく考えておられた、その跡が残っています。
この草稿の跡には、糸井はじめ一行、とても
衝撃を受けました。

2階にあがると、
梅棹さんの年齢を追って
その足取りをなぞることができます。
こちらもたいへんおもしろいので、
行かれた方は、
2階も忘れずに巡ってください。
特に、14歳から15歳頃につけていた
登山日記『山城三十山記』は
15歳が書いたとは思えない文面で、必見です。

時代の先の先を
いつも読んでいた梅棹さん。
なかには、考えを発表した当時、
まったく世間に受け入れられない考えも
あったようです。
一般読者からの投書なども取ってありました。
梅棹さんは、研究調査を自分の方法で貫き、
考えを築いてこられました。
その考えの跡を見ることは、
大きな刺激となりました。

このときのようすや梅棹忠夫さんについての
糸井重里のインタビューは、
7月4日に発売される「考える人」に
掲載される予定です。
「ほぼ日」のコンテンツでも
梅棹忠夫さんについて、改めて
お伝えできる機会があるといいなぁと思います。
それでは!

 

特別展
ウメサオタダオ展
2011年6月14日(火)まで
開館時間:10:00〜17:00(入館は16:30まで)
国立民族学博物館
2011-05-10-TUE