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第12回 ピクミンの微妙な重み。
子どものころ、植物の命について、
どうとらえたらいいのかよくわからなかった。
主義や主張などという概念のないころの話だ。

むやみに殺してはいけません、ということは、
なんとなく理解していたように思う。
人はもちろん、犬だって、カエルだって、アリだって。
けれども、植物については、
みんなが言っていることはなんだか曖昧だった。

たとえば、ドラマやマンガのなかでは、
とっても優しくて素敵な女性が、
野に咲く花を折って手に取り、
香りをかいだりしていた。
押し花という風習は、
古くからあるよいものとして扱われていた。
植木屋さんは植木を景気よく切った。
理科の授業では「間引き」ということばを覚えた。

森林伐採とか環境破壊とか、
そういうことを言いたいのではない。
植物にも命があると主張したいわけでもない。
僕らが野原に駆け出すときに、
両足が踏みしめる草のことは
なぜだか誰も口にしなかったということだ。
よいもわるいもない。
ぼんやりしている、ということだ。

『ピクミン』における「命」の扱いは、
絶妙というよりは微妙である。
ものすごく繊細でむつかしい問題だと思う。
少なくとも、つくり手の立場になってこれを考えるならば、
出口が見えなくて頭を抱えてしまう自信がある。

たとえば巨大なチャッピーがくるりと振り返り、
ピクミンたちをむしゃむしゃと食う。
大ざっぱに、面倒くさそうに、かたまりで食う。
わーわー、と、小さな悲鳴があがる。
昇天する魂のエフェクトが表示される。

最初に見たときは、誰もがびっくりする。
そんなのありかよ、と憤る。

あるいは美しい水辺を走っていて、
引き連れているピクミンたちが
誤って水中に入ってしまう。
青ピクミン以外のピクミンは泳げないから、
その場であっという間に溺れてしまう。
ばしゃばしゃいう水の音と、
わーわーいう小さな悲鳴が水辺に響く。
救出作業に手間取ると、
ピクミンたちは集団で死んでしまう。

いまだにこれをやるとうろたえてしまう。
ごめん、とほんとうに謝りたくなる。

プレイヤーにとってピクミンたちの死は、
いちいちイヤだし、いちいち悲しいし、
いちいち心がささくれ立つし、いちいち重い。

あえて冷静に構造の話をするなら、
『ピクミン』というゲームにおいて、
一匹一匹のピクミンの死を
プレイヤーが「重く」感じることは、
ゲームを進めていくうえで
プレイヤーのモチベーションに大きく作用する。

ピクミンたちを失いたくないからこそ、
プレイヤーは戦術を練る。
そういうわけにはいかないとわかっていても、
プレイヤーはピクミンを
一匹たりとも死なせないようにがんばる。
巨大な敵が大きな口を開けた瞬間には、
一刻も早くピクミンたちを回避させようとする。
画面に映っていない端のほうから
ピクミンたちの悲鳴が聞こえたときには
なにをさておいても駆けつけようとする。
もっと安全な作戦はないか。
もっと細かくヒット&アウェイをくり返したほうがいいか。
さきに小さな虫を片づけておいたほうが楽か。
この数で進むよりいったん引き返したほうがいいか。

つまり、ピクミンたちの命が重みを持つことは、
プレイヤーをどきどきさせるのである。
そこに命の重みがあるゆえに、
プレイヤーは彼らの犠牲を
味方ユニットの減少という
数値上の危機感としてだけでなく、
後ろめたい、ひりひりするものとして受け取るのである。

ところがこの重みは、過度にあってもうまくいかない。
もしもピクミンたちの死が、
いま以上に重く、いま以上に痛いものであれば、
プレイヤーの感じるストレスは倍増するだろうと思う。
たとえば、ピクミン一匹一匹に名前がつけられるとすると、
プレイヤーはピクミンたちにさらなる愛情を感じるだろう。
けれども、そのピクミンが無造作に食われてしまったなら、
ひどいショックを受けてしまう。
つまり、これ以上、ピクミンの命が重くなることは、
モチベーションを上げる以上にストレスを増やす。
ゲームとしての問題でいえば、
おそらくテンポが圧倒的にわるくなるだろうと思う。
だって、いま以上に彼らを死なせたくないと思うなら、
少なくとも僕は戦術をより熟考せざるをえない。

だから、『ピクミン』における、
ピクミンの命の重さは、とっても微妙なのだ。
なさすぎてもいけないし、ありすぎてもいけない。
ときにはプレイヤーが後悔するほどでないといけないし、
ときにはプレイヤーが個々のピクミンを
ユニットと割り切るくらいでないといけない。

その微妙な重みについて考えるとき、
僕が効果を感じるのは
ピクミンに「植物」のイメージを与えていることである。
種から生まれ、引っこ抜くことによって動きだし、
頭に葉っぱや花を頂くピクミンには、
設定以上の実感として「植物」の感覚がある。

重すぎても困るし、軽すぎてもいけない。
この説明自体がひどく曖昧なものだと思うけれど、
ときに意識し、ときに意識しないという
「植物」の命に対する僕のぼんやりとしたイメージは、
ピクミンの命を思うときの感じによく似ているのだ。
むやみに殺してはいけないとわかっているけれど、
足もとの草にいちいち命を感じていたら
野原で遊ぶことすらできない。

つけ加えると、ピクミンの大きさや、
生まれるまでの時間の早さ、
基本的に無表情であることなどにも、
重みに対する配慮を感じる。
おそらく、慎重に慎重に調整された結果なのだと思う。

ややこしい話を長く書いた照れ隠しに、
まったく違う話を書くとすると、
こないだマンションの1階に荷物を取りに行った。
注文した麦茶が届いていたのだ。
2リットルのペットボトルが6本入ったダンボール。
けっこうな重さだった。
両手に抱えてエレベーターのところまで行って、
ボタンを押すために苦心して持ち替えたりしていたら、
「ピクミンってたいへんだなあ」とつい思ってしまった。
ええと、それだけの話です。

※お知らせ:
 ただいま、別のページでは、
 「ピクミンの替え歌」と「ピクミンがいてほしい写真」
 募集をしていますよ。どうぞ気軽にご参加ください!

2004-08-12-THU


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