続・大村憲司を知ってるかい?
大村真司が聞く、父親のすがた。

高橋幸宏
×大村真司
その1
毎日一緒にいた。
兄弟みたいだった。


高橋 (4枚のCDジャケットを見て)
お〜!(笑) 懐かしい!
オリジナルジャケットで
出るんだよね。
First Step
1978年
Kenji Shock
1978年
春がいっぱい
1981年
外人天国
1983年
── ソニーの3枚()は紙ジャケです。

*First Stepが東芝EMIから、
 Kenji Shock、春がいっぱい、
 外人天国がソニーから発売されます。
 ちなみにソニーの3枚は
 紙ジャケット完全生産限定となります。

真司 YMOのベストアルバムと同時に
復刻されるYMOシャツって
オヤジも着てましたよね。
あるのかな? ウチに。
高橋 あったとしてもね、
小っちゃくて着れないよ。
復刻版を作るということになって、
オリジナルのサイズを
チェックしてみたんだけど、
胴まわりなんて、めちゃくちゃ細い。
みんなガリガリだったからね。
真司 もうみんなすごいもんね(笑)。
すごいスレンダーなの。
高橋 さすがに“忠実な復刻”といっても、
多少直しました。これじゃあ、
女の子しか着れないからね。
── 憲司さんも、大柄では
なかったんですか?
高橋 当時は、憲司も痩せてましたよ。
真司 晩年は太っちゃったけど。
高橋 (憲司さんの若い頃の写真を見ながら)
こうですからね。

YMOのワールドツアー、ロンドンでのスナップ。1980年。


「春がいっぱい」の頃、軽井沢でのスナップ。
真司 そっからだんだん
サルの進化みたいに
変わってった(笑)。
高橋 誰でもそうだよ。
‥‥ということで、
(姿勢をのばして)はい、真司くん、
今日は何でもお答えしますよ。
真司 わっ、何から話したらいいのか、
いっぱいあって、わかんないくらいです。
とりあえずは、まず、YMOのころの、
ツアーの話とか聞きたいです。


高橋

うん。えっとね、
YMOのツアー、いちばん最初は、
ご存知のように、
ギタリストは渡辺香津美くんだったんです。
でも僕たちがYMOを始めて
2年目のツアーのときには、
もう、かなりロック色が強くなっていたのと、
その頃僕は憲司と一緒に
「春がいっぱい」をつくっていたりして()、
YMOにも、ぜひ、
もうちょっとロックっぽいギターを
入れたいなと思っていたんです。
もちろん香津美も香津美なりに
すごい良かったんだけれど、
フュージョン系の受け取られ方を
したところもあったりして。

*「春がいっぱい」は高橋幸宏さんが
 共同プロデューサーをつとめた。


真司 なるほど。
高橋 そんなときだったから、
憲司だったら、もうちょっとロックっぽく
できるよね、やりたいな、って
僕の希望を二人
(細野晴臣さん、坂本龍一さん)に
聞いてもらって、
みんなも納得してくれて。
真司 それで参加することになったんだ。
その前とかから、やっぱり、
面識があったっていうか、
一緒にやっていたんですか?
高橋 憲司との初めての出会いは、
野音でした。
真司 日比谷野外音楽堂。
高橋 ええと、憲司がやってたの、
何だっけ? 「赤い鳥」の後の‥‥。
真司 「バンブー」とか「カミーノ」の頃?
「エントランス」あたりかな?
高橋 そうだ、僕が会ったのは
「バンブー」の頃だね。
だけど、その前から、
憲司の存在は知っていて、
プレイも見てるの。
すっげーうまいギタリストが
いるって聞いてて、
どういうタイプなのかって
見に行ったんです。
フュージョン系なのかな、
って思ってたら、そうでもなくて。
あんまり必要以上のものを弾かない人で。
昔っから。
初めて見たとき、今でも憶えてるけど、
リー(Lee)のオーバーオールを着てて。

77年頃の憲司さん。
Leeのオーバーオールがトレードマークだった。
真司 あのころ、アフロだった
こともあるんですよ。
写真で見たことあります。
高橋 そうだったんだ?
そのころの髪形は憶えてないけど、
リーのオーバーオールを着てて、
メガネをかけてた。
それで、ドラムが林立夫と
ポンタ(村上秀一さん)のダブルで、
今井裕がいて。
Blackbirdとか、
カバーでやってたんだ。
それが、憲司を見た最初だった。
真司 そんときはロックっぽかったんですか?
高橋 すごくロックっぽいって
いうのとも違うんだけど、
けっこうロックっぽい曲も、
やっていたんだよ。
真司 新しい感じだったのかな。
高橋 新しいっていってもね、
聞いたこともない新しさじゃなくて、
日本人でこれだけ
上手い人たちがいっぱい集まってるんだ、
っていう意味での、新しさのイメージだった。
真司 うーん、なるほど。
高橋 で、僕がミカバンド
(サディスティック・ミカ・バンド)
だったでしょ。
憲司とやってた小原(小原礼さん)は
ミカバンドから見ると裏切り者で(笑)。
ミカバンドを飛び出してった
人間だったから。
でも、なんか、すっごい伸び伸びと
やってたのを憶えてるよ。
真司 で、YMOに、つながるの?
高橋 いや、そのときはね、
挨拶したぐらいで。
ええと、だんだん‥‥。
憲司に最初に頼んだのは
何だったかなぁ‥‥。
そうだ、まずね、僕のソロアルバム
「Saravah!(サラヴァ!)」でね、
ギター弾いてもらってるんだよ。



それは教授(坂本龍一さん)からの、
推薦だったと思うんだけど、
妙に、意気投合して。
その後、僕がプロデュースするものには、
たくさん参加してもらうようになった。
いちばん思い出深いのは、
Susan(スーザン)って女の子の
プロデュースで。
真司 それは母さんからも
聞いたことがあります。
高橋 合宿レコーディングをしたりね。
1枚目は1980年の
「Do You Believe In Mazik
 〜魔法を信じるかい」
っていうアルバムだったんだ。
ジョン・セバスチャンの
曲のカバーをやったんだけど。
憲司にはもう、喋ってもらったり、
歌詞を一緒に考えたり()とか、
もういろいろやってもらってる。

*大村憲司作詞の曲は
 「It's No Time For You To Cry」で
 作曲は鈴木慶一さん。
 また、佐藤奈々子作詞の
 「24000回のKiss」、
 クリス・モスデル作詞の
 「Screamer」では、
 憲司さんが補作詞をしている。


で、2枚目の「The Girl Can't Help It
〜恋せよおとめ」っていうアルバムも
ほんと憲司とべったりやってもらって。
その頃と、「春がいっぱい」の時期って、
わりとくっついてんの。
真司 幸宏さんとオヤジが、
一緒に作ったんですか。
高橋 うん。80年、81年頃。
合宿、伊豆あたりでやったなあ。
もう毎日、憲司がふだん
やらないようなことばっかお願いして、
弾いてもらって。
そんなことがあって、81年に、僕が
「Neuromantic(ロマン神経症)」
っていうアルバムを、
ロンドンでレコーディングしたときに
憲司にもロンドンに
一緒に来てもらったんです。
だから1年間、
もうほとんど一緒だったんだよね。。


真司 1年間、ずっと!
一緒にスタジオワークしたりとか?
高橋 スタジオワークもしたし、
YMOのワールドツアーもあったしね。
ロンドン・レコーディングのときは、
結局7ヶ月ロンドンにいたんだけど、
憲司には最初から来てもらって
3ヶ月ぐらいはずっと一緒だった。
合間に加藤和彦のアルバムの
レコーディングがフランスであって、
それもロンドンから一緒に行って。
で、またロンドンに戻って、って、
そんな感じでずっとやってた。
ほんとにそのときは
兄弟のように一緒にいました。

81年、フランスの田舎のスタジオで、
加藤和彦さんのレコーディング。


パリで、教授と。
── 伊豆合宿で、憲司さんに、
やったことのないことを、
いっぱいやってもらったって、
たとえばどんなことだったんですか。
高橋 もうグシャグシャな
エフェクティブな音で。
ほとんどギターだって
わかんないようなのとかね。
まあ、今思えば、
それも音楽的なことなんだけど、
フレーズじゃなくていいとか、
ノイズだけとかね。
「Neuromantic」の中の、
僕の「Glass」って曲があるんだけど、
その曲のソロはすごいですよ。
でも、まあ、
エイドリアン・ブリュー()とか、
そのへんが頭にあったんですね。

*Adrian Belew
 元キング・クリムゾンのギタリスト。


憲司はエイドリアンに
すごく興味があって、
そういう音の出し方とかを、
研究してましたよ。
かなり新しいタイプの
ギタリストの一面を、
出してたと思うな。
フレーズを弾くソロではないソロとかね。
で、その「Glass」っていう
曲のレコーディングでは、
エンジニアのスティーブ・ナイ()が、
憲司のソロを聴いてね、
「実は自分はあんまり
 ギターソロとか好きじゃないんだけど、
 このソロは最高だ」
って言ってたのを憶えてる。

*Steve Nye
 イギリス人のエンジニア。
 JAPANのプロデューサーもつとめた。
 ブライアン・フェリーや
 ペンギン・カフェ・オーケストラも手がけている。

真司 へぇー。
高橋 3テイクぐらいでOKだったよ。
ただウィーン! って
いってるだけなんだけど(笑)。
だけどかっこいいんですよ、それ。
真司 オヤジと幸宏さんは、
衝突とかはなかったの?
ずっと仲良く?
高橋 憲司とはね、衝突しなかったですね。
僕が、新しいことやるってことに対して
一緒に面白がってくれたし、
尊重してくれた。
憲司は、かっちりとした
自分のスタイルを持っていながら、
新しいことにも
どんどん挑戦してくれたんだよね。

── そのころ真司くんって、いくつぐらい?
真司 いや、俺、生まれてないと思う。
高橋 何年生まれ?
真司 俺81年生まれっすよ。
高橋 じゃ、生まれた年ぐらい。
真司 お腹ん中で、ずっとテクノを聞いてたから。
高橋 胎教はテクノだね。
真司 うん。テクノ聞くと落着く。
高橋 ははははは。
その当時、ニューウェーブ系とか、
新しいグループで
新しいギターワークのバンドがあると、
憲司に聞かせて、
どう? って訊くんだよ。
憲司はもちろん好き嫌いはあるから、
好きなものは、
ものすごい面白いって言うし、
これ、こういうことやってるんだよって、
分析もできるわけ。
で、当時の連中は
憲司みたいにテクニックがなくて
自分のスタイルだけを出してくる
連中が多くてね。
憲司は、テクニックを持ってるから、
それを分析して、
これね、5弦となんとかで、
こういうふうにやってるんだよとか
教えてくれて。
真司 YMOと一緒にツアーしたときのこと、
もうすこし聞かせてください。
高橋 憲司は最後まで、僕に会うたびに、
「あれで自分の人生の方向性が変わった」
って、よく言ってたね。
真司 でも、ほんとそうだよね。
表の舞台にバッと出て、
ロックスターっぽい時期だったと、
俺の中ではそう見える。

80年、YMOのワールドツアーでの憲司さん。
高橋 ワールドツアーでは歌ってたしね。
あと、僕の80年の
「音楽殺人」ていうアルバムの中の
憲司のギター、すごいよ。
「Bijin-Kyoshi At The Swimming School
 スイミングスクールの美人教師」
っていう曲では、
憲司にシャドウズみたいな音で
弾いてもらってるし。
「The Core of Eden」
っていう曲のギターソロも、最高ですよ。
それは、イギリスの
プロコル・ハルムっていうバンドの
ロビン・トロワーみたいに弾いて、
って言ったら、
もう一発でその感じになってたし(笑)。


── かなり蜜月時代があったんですね。
高橋 うん。
真司 「春がいっぱい」に至る経緯を、
もうちょっと聞かせてください。
高橋 ずっと毎日毎日一緒にいて
いろいろなトライをしてきたわけでね、
その感じを、
次の憲司のアルバムではやってみようよ、
っていうことだったんです。
そのころの憲司のポップな感じとか、
ニューウェーブから影響受けたとか、
僕たちがそのころ好きだったものを
やってみたっていう曲が多かったですね。
だから、すごいイギリス的なアルバム。
ジャケットもイギリスで撮ったんですよ。

真司 1曲目の
「Intensive Love Course」
って曲がすごい好きで。なんか‥‥。
高橋 あのアルバムはね、
途中から教授も参加してくれて、
コ・プロデュースで名前が入ってるでしょ。
教授は、ミキシングに対する
アイデアとかも出してくれて、
それでまたさらに広がった。
でも「Kenji Shock」とは対極だよね。
「Kenji Shock」をプロデュースした
ハービー・メイソンが
「春がいっぱい」を聞いて、
俺がせっかくいいアルバム作ってやったのに、
こんなにしやがってって
言ったらしいから(笑)。
真司 「Kenji Shock」のほうは
すごいかっこつけてる
オヤジのイメージがあります。
高橋 フュージョンの波に
ロックギタリストが入ってって、
キチッとした教則本みたいな
アルバムを作ったっていう
感じなんですよね。
みんな上手くて、完成度高くて。
真司 うん、でも「春がいっぱい」は、
すごい、なんていうの、
ほんとに優しい感じというか、
肩の力抜けててね。みんなで‥‥。

六本木のソニースタジオでの
「春がいっぱい」の録音風景。
高橋 たとえば、
セイコ(憲司さんの奥さん)に
対する思いとかが、
ちゃんと曲になってたり。
真司 内面的なところがありますよね。
高橋 「Seiko Is Always On Time」
セイコさんがいっつも遅刻するっていう
内容なんだけど。
真司 ははははは。
高橋 それ、時計のSEIKOとセイコとかけてるんだよ。
なかなかそのへんの憲司の、
シニカルな感じもあったんですよ、
歌詞の作り方に。

YMOのワールドツアーはセイコさんも同行した。
真司 死ぬ直前に作ってた曲とかに、
共通するものがあるのかなぁ。
内面が出てくるっていうか、
タイトルで語るんですよね、
オヤジって。
高橋 あと、憲司はボーカリストとしても、
すごい魅力的だったからね。
「Far East Man」なんか聞くとね、
かっこいいですよね。
うん、ロックギタリストが
歌ってるっていう感じがして。
真司 いぶし銀な感じっすよね。
声が、太くて、低くて。
幸宏さんは、4枚のアルバムで
やっぱり好きなのは
「春がいっぱい」?
高橋 「春がいっぱい」がいちばん好きだね。
だけど、「Kenji Shock」も、
いちばん最初に聞いたときは、
やっぱりびっくりした。
その完成度の高さにね。
でも、僕たちが一緒につくるときは、
心がそっちになかったよね(笑)。
── じゃあ、わりと、
「春がいっぱい」みたいな
ポップな感じをやろうっていうのは、
お2人の中ではすごく
自然な方向だったんですね。
高橋 自然でしたね。
やってたことをそのままアルバムにして。
しかも憲司が、
ちゃんとリーダーシップを
とれる人だったんで、
自分の思いをちゃんと文章化してくれて、
歌詞も書いて。
すごい頑固なとこあるし、
こうだって決めたら、
絶対にそれはやる人だけど、
人の意見ももちろん、
うまく聞くんですよ。
── 参ったな、っていう瞬間はなかったですか?
高橋 憲司に関してはなかったけど
ふたりして「参ったな〜」はありました。
「Under Heavy Hands and Hammers」
っていう、すごい重い曲があるの。
すーごい、いい曲なんですよ、今聞いても。
憲司が歌ってるんだけど、それもいいし。
それを僕と憲司でほとんどミックスし終えて、
教授に聞かせたら、
「これ、すごくね、上手にミックスしすぎてる」
って言われて。
僕たちはそのままで
絶対いいと思ってたんだけど、教授から
「頼むから僕に、もう1回やらせてくれ」
って言われて、ミックスし直してもらったの。
それを聞いたらさ……、
そっちのほうがいいわけ(笑)。
バランスは、悪いんだよね、
教授のミックスは。
だけど、なんか魅力的なんだよ。
こういうのもあるんだねって
憲司と言ったのを憶えてますよ。
真司 嬉しいような悲しいような瞬間ですよね。
高橋 今思うと、教授、その頃けっこう
荒れてるっていうか、
今みたいに安定していなかったから(笑)、
その、やや荒れた感じが、
うまく曲と合ってたんじゃないかな。
すごく暗い曲なんでね、実はね。
音楽っていうのは、
安全な部分とか平均点で作ることが
ベストじゃないんで。
かえって壊しちゃったことで、
すごくいいっていうふうに
なることもあるという、
ひとつのいい例だと思いますよ。


これはミラノのホテルで、
細野さんの陰にかくれてふざける憲司さん。

*高橋幸宏さんの後編は、明日更新です!

このページへの激励や感想などは、
メールの表題に「大村憲司」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2003-07-31-THU

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