69枚目: 「ルーミとぼく」
大きなネムノキの秘密の虚。
痕がつくぐらい幹に頬押しあてても
そこに便りはなくなって--
ある寒い朝。
ぼくはイトイコビッチ大旦那さまの
馬車馬の房を掃除していた。
すると屋敷から声がかかったんだ。
ぼくは熊手を板戸に立てかけて
作業着についたわら屑を払うと
玄関に駆けていった。
そこにはいつになく上機嫌な
大旦那さまが立っていて
ぼくに言った。
「おい、シルチョフ。
今日からこの娘がイトイコ家の養子に…」
そういう煙草くさい大旦那さまに
紹介されてもじもじしている女の子は
(…!)
「ルーミ。ルーミじゃないかっ!」
ぼくは、つい飛び込みそうになって
大旦那さまの射すくめるような視線に
あわてて足をひっこめた。
大旦那さまにしがみついたまま
ルーミは申し訳なさそうに
こっちを見ている。
「シルチョフ、 この子はもう
お前の知ってるルーミじゃないんだ。
お前は馬飼い。そしてこの子は私の娘になるんだ。
昔のルーミについてお前の知ってる事は全て忘れて
これからは二度と口にするんじゃないぞ。」
どうしてルーミがここに?
町でパンを一緒に盗んだり
雨の日は橋の下で肩寄せあって
一緒に眠ったルーミ。
15歳になって孤児院を追い出された日。
ぼくはポニーの丘で泣いていたら
なぜか丘の上なのに釣り竿を背負って
狩りのまっ最中だった大旦那さまに拾われ
以来、イトイコ家の使用人に。
そしてルーミは…
海のない遠い町に出て
安酒場で踊り子になった、と
そんな噂を最後に、もう2年。
風の便りさえ、そよとも聞こえなかった。
少し大きくなって、綺麗な服を着て
大旦那さまに髪をなでられているルーミ。
埃に汚れてひっつめだったブロンドは輝き
とがってた頬骨もふっくらミルク色の頬にくるまれて
まるでルーミはお姫さまのよう。
「わかったな、シルチョフ。」
…ぼーっとしていたぼくに
イトイコビッチ大旦那さまは
濃い緑色の瞳をむけて釘を差した。
もちろん、ぼくだってルーミの事を考えたら
それがいちばんだと思った。
ルーミに悪いことなんて絶対言えないし
大旦那さまの恩だって忘れてない。
でも、ルーミの名前さえ呼べなくなるぼくの気持ちは…。
ぼくは何に甘えようとしたのかルーミをみつめた。
そして一瞬の間、
ルーミはそっと僕から目をそらせたんだ。
(オーケー、わかったよ。)
朝はルーミが食べる分だけ
1つ増えた卵を鶏小屋から集める。
昼はルーミが練習するたどたどしい
ピアノの音を聞きながら飼い葉を交換する。
光の中でカーテンを閉めるルーミの影を
2階に見上げながら馬小屋で眠りにつく。
…そんな毎日が始まった。
いままでより嬉しいはずなのに
倒れ込むように寝るのに
わらが背中にちくちくして眠れない。
ルーミと大旦那さまを乗せて
馬車が門をくぐり抜けていった。
新学期からルーミは学校に通ってる。
学校には立派なお金持ちの家の
もちろん親無しなんかじゃない子が集まっていて
きっとルーミならすぐに人気者だ。
ルーミとピクニックにいったり
ダンスをしたがる男の子もいっぱいでてくる。
そんなの嫌だよ。
そりゃ寒くてひもじくて痛かったけど
ぼくはずっとルーミと一緒にいたんだ。
「お嬢様。」じゃなくて
大声でルーミの名前を呼びたい。
でも親無しの馬飼いが学校に行くなんて
聞いた事もない話だけれど…
ちょっとだけ、ぼくはルーミと学校に行くなんて
夢みたいなことを考えてみた。
そして、かじかむ手で水を汲み上げたり
鶏小屋の掃除におわれていると
夕暮れの中、馬車が帰ってきた。
ルーミはぼくに一言も話しかけない。
ぼくは黙って深々と頭をさげる。
そうしていればルーミの顔を見ないですむから。
頭をあげた時には、もう小さなルーミのうしろ姿。
座席の肩口に掛かった茶色いショール。…あ!
ぼろぼろの茶色いショールは
ノエル祭に僕が盗んでやったもの。
「シルチョフの事は忘れてないよ。」
ショールの残像に
昔と変わらないルーミの声が響いていた。
あは、そんなのお姫さまの肩には
もうボロ布にしか見えないよ。
その晩。
ぼくは素敵な思いつきに
じれったく夜を待っていた。
そして、こっそり馬房を開けると
ねむたげな馬に飛びのって牧場に駆けだした。
こんな大きな月の夜なら
きっと、みつけられる。
ルーミ、がんばれ。
イトイ長屋の新連載
→『るみこですわ』
シル shylph@ma4.justnet.ne.jp
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