72枚目: 「フジヤマノトビウオ」
俺が待合室のプールで休んでいると
強肩手術の痕も痛々しい
イラクの砲丸投げ選手が入ってきた。
医療技術輸出を禁止されてから
イラクの選手は傷跡のケアがまるでなってなく
例外なくみためが怖かった…。
そろそろ出番だ。
俺は景気づけにアンプルを3本飲み干す。
瞬く間に筋肉が緊張する。
酸素マスクを当てて酸素をなるたけ溶け込ませる。
指の股の水掻きを1つ1つ丹念に伸ばす。
21世紀初頭、ドーピングと収賄容疑で
荒れに荒れたオリンピック委員会が
何を思ったのかエンターテインメント性を徹底。
再び衆目を集めようと取り入れた新ガイドライン。
科学的トレーニング技術が世界中に輸出され
金メダルの数が減ってきたアメリカの
強力な後押しもあったのだろう。
今度はとうとう化学的トレーニングも
生体的強化も認可。
総合的なスポーツの祭典として
オリンピックは新生したのだった。
20世紀にも行われていた卵巣除去手術や
ホルモン剤の投与とはスケールが違った。
それこそ人種的な体格差を超えて
生まれついた国の医療技術、科学技術力。
経済力。倫理観の偏差まで全てを抱えて
持てる力の限り各選手は競い合う事になった。
ナノマシンが血中を泳ぎ
乳酸を分解して決して筋肉疲労しない。
アメリカの長距離選手マッケンジーの登場が嚆矢となった。
42キロを1時間半で駆け抜ける彼に対抗して
中国が投入した新技術が足長成形術だった。
その歩幅4メートル。
ところが坂道での怪我が相次ぎ、
一瞬の話題沸騰の後、足長族はマラソン界から消えた。
幸い、彼らは次の大会で3段跳びに出場して金銀銅独占。
華々しく復活を果たしていった。
皮膚移植で水掻きのついた水泳選手。
人工筋肉を全身にまとい、鉛プラントで
100キロ程重量を稼いだ柔道選手。
マイクロプロセッサーを埋め込まれた射撃選手
彼は手首がとれてライフルになっていたっけ。
それぞれの世界で改造選手が活躍をはじめた。
この新ガイドラインの導入当時。
俺は高校の水泳部2年だった。
負け知らずで、400メータ自由形では
インターハイ優勝候補と言われて
自分でも確実だと思っていた。
そしてそれを破ったのがK高の川下だった。
決勝の飛び込み台に立って横をみると
川下の首筋には赤いラインが2本
ぷくぷくと蠢いていた。
高校水泳連盟の灰色の回答を前に
見切り手術。人工エラ形成術だ!
そういえば奴の家は金持ちだった。
俺は川下に対抗すべく
次の大会まで土方をして働き
近所の整形外科医に頼み込むと
人工皮膚は手が出せなかったので
背中の皮膚で手に水掻きを作ってもらった。
そしてまた負けた。
飛び込み台にマーメイド座りする
奴の足は尾鰭になっていた…。もう勝てない。
俺は親爺の退職金を持ち逃げして
アメリカでエラを作ってきた。
水に入ってないと呼吸も苦しくなった2人。
恋人は悲鳴をあげて逃げ去り、泳ぐ以外に未来は無く、
ただ青いプールをぐるぐる泳ぎ続ける日々。
気付けば日本の水泳界を背負って立つ2枚看板に。
新聞・雑誌で俺と川下は黄金の人面魚コンビと呼ばれていた。
バラエティー番組に出演して
シーパラダイスで回遊するマグロと競争した事もある。
鯉の池に潜んでどっきりカメラをしたこともある。
ある意味、人気者だ。
ところが技術の移り変わりは早く
最近の水泳界のトレンドは
腕を回転運動できるようにした球関節なんだそうだ。
確かに水車のように腕を回し続けるクロールは早い。
だけど泳ぐのに魚を模さないやり方は
なにか自然を冒涜している…
若手はそんな俺達、魚系を古くさいと小馬鹿にする。
「もう、刺身じゃくえねえな。」
今日も廊下を跳ねていると
決勝落ちの球関節、小松がちょっかいを出してきた。
確かに今回のオリンピックでは半数以上…
いや…決勝では既に殆どが球関節だ。
しかし俺達の腕はヒレ。もう再手術は出来ない。
ここは意地でも結果をみせなければ後が無いのだ。
25歳で選手生命を断たれてたまるか。
俺は興奮を青くて冷たい闘志に変換する。
静かに底に身を横たえて呼吸を整えた。
号砲。
俺と川下は飛び込み台に置かれた水槽から
力一杯、プールに飛び跳ねた!!
illust:Kohji-3200
シル shylph@ma4.justnet.ne.jp
from 『深夜特急ヒンデンブルク号』
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