おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。


「おいしい料理がおいしくあるために
 備えていなくてはいけない要素」その5は、
“最後まで美味しいと
 思っていただける料理(料理達)であること”です。

お客様が最終調理人として
調理行為に参加してしまうレストランの料理において、
それでも唯一シェフだけが
決定権を持っているコトがあります。
それは「一人前の分量を決定する」ということ。
この分野に関してシェフは
独裁者のごとき権限を持つということになりますネ。
だからどんな料理でも一皿全部を平らげたときに、
もっとも幸せな状態になれるように出来ています。
どの料理パーツをどの順番で克服していこうが、
たどり着く終着地点における満足感は
シェフの期待通り、ということになるわけです。

例えばコンソメスープの最初の一口目が物足りなく感じる。
‥‥でもそれはおそらく最後の最後の、
本当に最後のスープの一滴を胃袋に収めた瞬間に
「ああ、おいしかった」
と感心してもらえるように作られているから。
だから一皿一皿、しっかり残さず平らげましょう。
きれいに中身が無くなった空っぽのお皿が厨房に下がる。
これは「シェフのメッセージ、
確かに受け取らせていただきました」
という意思表示に他なりません。
だから平らげましょう。


嫌いな食材が入っていたら
どうしましょうか?



もしお皿の中に嫌いな食材が入っていたら?
‥‥、うーん、残念だ。
この年になるまで嫌いな食材を
好きになる努力を怠っていた自分が悪い、
とまず思いましょう。
そして、その食材を除いて、ひと皿を食べ終えたら、
まことに申し訳ないが、と恐る恐る、本当に恐る恐る、
すみませんがこの食材が苦手なので、と言って
「シェフに申し訳ないとお伝えください」
とお皿を返します。
もちろんそれ以外の食材はしっかり片付けて。
もしお皿の中の全部のものが嫌いだったら?
そんな注文をしたあなたが悪い。
もしそのお料理があなたが考えていたような料理と
根本的に違って、ああどうしよう、と思ったら?
それもあなたの想像力の無さを嘆きましょう。
そんな失敗をいくつも繰り返しながら
人は大人になるのです。
ワタシはもう大人だから、と思ってる人に限って
大人じゃない、と言うのは料理の世界のみならず
世の中のルールですから。
だからあきらめましょう。

ボクは納豆が嫌いでした。
嫌い、と言うよりも理解を超えた存在でした。
美味しくなかったからじゃなくて
食べる前から嫌いでした。
つまり生まれながらに嫌いだったわけです。
ある日、蕎麦が美味しいと評判の
日本料理のお店に行って、
カウンターにちょこんと座りました。
確かに料理の一つ一つは素晴らしく美味しいし、
〆に出された蕎麦も瑞々しい逸品でした。
はじめた行った店で物怖じもせずむしゃむしゃほお張り、
出されるものをうまいうまいと無邪気に食べるボクは
かなりその時、得点を稼いだんでしょう。
「うち、蕎麦だけじゃなくてうどんもうまいんですヨ。
 とっておきのがあるんで食べてきますか?」
親父さんが言います。
おなか一杯で入らないのなら別だけど、
と言うこの一言がボクの食いしん坊魂に火をつけましたネ。
「いや、頂きます、折角ですから」と。
すると親父さん、厨房の中に駆け込んで
暫く手を動かしていたかと思ったら、
手の中に茶碗を持って飛び出してきました。
「よく混ぜときましたから‥‥、
 そのままズズッとやって下さい。」
見れば僕の目の前には納豆うどんがあったのでした。
ジャジャジャン。
うどんには見事に納豆が絡み付いていました。
ネギ、大葉などがところどころに彩を与えていたけれど、
うどんは見事に納豆色で、
あまつさえところどころが泡までふいていたりしました。
納豆うどんです、と言って
うどんの上に納豆がかぶさっているくらいなら、
それをよけよけ麺だけを手繰り寄せることも
出来ようものを、
でも納豆まみれのそれが目の前にドン。
カウンターの中では人なつっこげなご主人の笑顔。
前門のトラ、後門の狼ってこんなもんだろう、
その時はそう思ったネ。大袈裟でなく。
おなかの中ではどんどん蕎麦が膨らんできます
どうしよう。
テレビドラマならここでCMが入りますネ。
でもボクのドラマには待ったはありません。
‥‥食べましたネ。ボクは。
勇気を振り絞って食べました。納豆うどん。
で、それがなんと食えるもんなんです。
あっけないくらいに納豆のずるずるは
ボクの胃袋の中に納まって行くんです、不思議なことに。
そしてなんと、それまでの苦手は
一挙にボクの好物になり、
その日いただいた全ての料理の中で
その納豆うどんが一番印象に残る料理になったのでした。

レストランで食事する驚き、というか
楽しさというのは
こうしたことにあるような気がします。
だから平らげる努力をしてみましょう。
そしてそれは「一皿を」だけでなく
「その日頼んだ全ての料理を」にまで拡大して
応用しましょうネ。


「コース」というものが
なぜ、あるんでしょう?



コースのような食べ方をなんで人間は発明したのか?
って考えると、それはいろんな機能を持った
さまざまな料理をちょっとづつ食べることによって、
おなかの満足以上の満足をしてもらおう、と思う
料理人の気持ちが洋の東西を問わず同じだった、
というコトに他なりません。

一番最初に提供されるアミューズ、
日本料理だと八寸だとか
あるいはもっと簡単に
居酒屋あたりで出てくる突き出し、あれは
「空腹を実感させる」ために存在している、
とボクは思います。
あれをパクッと口に含むと、
早く次の料理が食べたい、と思うもんね。

では前菜は何のためにあるのでしょう?
それは「同じテーブルにいる人たちが親しくなる」
ためにあると思うんです。
だから前菜のほとんどは美しく特別な形をしていて、
それをみんなが愛でつつ
会話が弾んでいくように出来ています。
メインディッシュの役割は、と言えば
もうこれは「皆が一緒におなか一杯になってゆく幸せ」を
味わうために存在するのであって、
同時に「このようなご馳走が楽しめた幸せに感謝」
するためにあるんだネ。
こうやっておなか一杯になって初めて人は、
自分達の心に素直になることが出来ます。
だからデザートというのは
「人と人が本音で話す」時間を彩る、
という役割を持っています。
そう思うんです。

そう考えるとこの全てのステップを
正しく堪能したいと思いませんか?
レストランという装置の中で、
シェフが書きなぐった「人と人が幸せになる過程」という
シナリオ通りに貴重な時間をすごしたいと思うでしょう?
だからレストランにはおなかを空かして行きましょう。
この幸せなプロセスのどこかで、
一人だけがギブアップする、なんてことが無いように、
しっかりおなかをすかして行きましょう。

次回はこの続き。
コース料理のことをもうちょっと考えてみましょう。
「一皿一皿を楽しむ」ということについてです。


illustration = ポー・ワング

2004-02-19-THU

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