おいしい店とのつきあい方。 |
ベイクドポテトはナイフフォークで 食べるモノなのでしょうか、 それともスプーンで食べるのが正式なんでしょうか? 一家言もった人、という人がいます。 「こだわり」と「かたくな」の中間あたりにある 厄介なものが一家言で、「かくあるべし」的信念に近い。 こだわりには攻撃性がない。 それを持っている人の中で、 そのこだわりはほぼ完結をする。 かたくな、となるとこれがいささか厄介で、 その主義主張を人にまで押し付けないと 気がすまなくなったりもする。 その中間、それが一家言です。 ボクの父が「ベイクドポテトを食べる」 ということに対して、一家言を持っています。 ベイクドポテト。 アメリカンスタイルのステーキハウスの 定番中の定番サイドディッシュです。 それを食べるには絶対にナイフとフォークを 用いなくては気が済まず、なぜならベイクドポテトとは 「ジャガイモの皮と中身を一緒に食べて味わう料理」 だと、信じてやまないから。 確かに程よいサイズのジャガイモの シッカリ焼きあがった皮の表面のツルンとした食感と、 身の中央部分のホックリとした心地よい粉っぽさは、 同じ野菜の同じ調理方法で出来上がった 同じ料理と思えぬほどの両極端で、 それを同時に味わえる、なんたるシアワセ。 しかも皮と身の接点をなすデンプンの部分、そのネッチリ。 それらを一緒に口の中に放り込もうと思ったら、 やはりナイフとフォークで切り取って 口に運ぶのが一番、ということになりますネ。 確かに正しい。 ベイクドポテトがあるのにナイフフォークがない。 スプーンが置かれてあるだけだったりする。 するとウェイトレスを呼びつけて、 ナイフフォークを持ってくるよう言い、 しかも何故、スプーンでは駄目なのか、という理由を とうとうと説明をする。 ジャガイモの皮を食べるのはいや、 とむずかる同席者にさえ、 ナイフとフォークを持たせてこう言う。 一緒に食べてごらんなさい、 今までなんで皮を残して食べていたんだろう、 と後悔するに違いないから、って。 好きは好き、嫌いは嫌いだから 食べ方まで押し付けられても迷惑なだけなのだけれど、 そんな「ベイクドポテトをナイフフォークで食べる教」の 熱心な布教者のような父を、 心底、困らせる出来事が起きました。 場所はアメリカ、 ベイクドポテトが美味しいことで有名な ステーキレストランでの出来事です。
アイダホポテトです。 本場も本場、ベイクドポテトになるべく 生まれてきたジャガイモを、一日何千個も、 何十年にもわたって調理し続けてきた名店ですから、 そりゃ、期待は否が応でも高まります。 驚くほどの大きさでした。 大人の握りこぶし二個分は 優にあるであろうほどの大きさで、 これがまたこんがりと焼け ジリジリと焼ける音が聞こえそうなほどの出来栄えで、 ワタシ達の目の前にありました。 バックリと割れたジャガイモのてっぺんからは、 象牙色の中身がこぼれだし、食べる前から、 ああ、完璧なベイクドポテトって こんなのを言うんだろうな、と僕らは思いました。 完璧なジャガイモ。 ただ一点を除いては。 そう、僕らの前にはナイフフォークが無かったんです。 代わりにあったのはスプーンが一本。 見る見る父の顔は不機嫌になり、うわ言のように 「ナイフが無い。フォークが無い」を繰り返す。 無けりゃ代わりのスプーンで食べればいいのだけれど、 それも出来ない状態で呆然とする僕らに ウェイトレスがこう言いました。 「飛び切りに美味しいベイクドポテトの 食べ方を教えて上げましょう」 そういうが早いか、 彼女は父のベイクドポテトをつかんで 皮を左右に開いて口を広げる。 皮が、皮が、ああ、ワタシのジャガイモの皮が、 と言う父を尻目にスプーンをつかむ。 そしてテーブルの真ん中に置かれた カリカリベーコンやチャイブのみじん切り、 サワークリームやバターなんかを ジャガイモの開いた口から中に投入して、 あろうことかスプーンでグジャグジャかき混ぜる。 父、卒倒。 それを真似て僕らもグジャグジャ。 見る間に目の前のジャガイモは、 パン粉をはたく前のコロッケの中身のような 状態になり果てました。 もうこうなるとナイフフォークがあっても 仕方ないシロモノで、 スプーンですくって食べるしかありません。 あの完璧なベイクドポテトを、 こんな残骸のような物体にしてしまった ウェイトレスを恨めしそうに見つめながら、 スプーンでひとすくいした父は、 何か文句の一つも言いたかったはずだけれども、 出来なかったのです。 美味しかったから。 見た目のコロッケの中身のような状態、というのは まさにその通りで、 それは焼く前のポテトグラタンのようであったり、 パン粉を忘れたコロッケのようでもあったり、 ジャガイモの味そのものをもれなく味わいつくす類の ベイクドポテトとは違ったけれど、 まったく別の美味しいジャガイモの料理であったのは 確かだった。 自分たちで作る、飛び切りフレッシュなマッシュポテト。 そんな感じ。 これもいけるなぁ、と次々、 口に運んでみるみる皿には 脱ぎ捨てたカーディガンのように、 くしゃくしゃ惨めなジャガイモの皮だけが 残って終わりました。 そのシワシワの皮を見て、 「でもやっぱり皮も一緒に食べるのが旨いんだよな」 と憎まれ口をきくことも忘れずに、 しかし顔は満足で一杯、というふうでありました。
この地球には、ベイクドポテトという名前の 二種類の料理がある、ということです。 一つは 「ジャガイモのいろんな味わいを 満遍なく楽しむ贅沢な」料理。 もう一つは 「ジャガイモの美味しいところだけを味わう ワガママな」料理。 前者はナイフとフォークでお行儀よく 切り分けて食べるモノ。 もう片方はスプーンでグジャグジャつぶすように 混ぜ合わせてスプーンですくって食べるモノ。 どっちがどっちの、ヒントはテーブルの上、 お皿の周りに潜んでいます。 片手握りこぶしほどのジャガイモに バターだけが添えられてやってきた。 テーブルの上にあるのは塩、コショウだけ。 これはお行儀よくいただくベイクドポテトで、 迷わずナイフフォークで頂きましょう。 アメリカ東部の名門大学を卒業した エリートビジネスマンになったつもりの、 ちょっと気取った晩餐気分です。 大き目のジャガイモと一緒に、 サワークリームやベーコンビッツのような 薬味がたくさんついてやってきた。 イッツ・タイム・フォー・グジャグジャ、です。 スプーンを貰って、 心置きなく混ぜ混ぜしてから食べましょう。 アメリカ中西部のカウボーイになった気分です。 アメリカといってもいろんなアメリカがあるように、 アメリカの料理といってもいろんな食べ方がある。 こだわりが行過ぎて、偏屈になっちゃうと損、 ということでしょう。 illustration = ポー・ワング |
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