おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。
(四冊目のノート)

実は東京にもう一軒。
ボクが愛してやまない、
メニューをもたないレストランがあります。
今まで話してきた、高級なステーキレストランほどは
高くはない。
けれど、かなりの一生懸命を繰り返し、
ひとときの贅沢分の言い訳としなくては、
やってくる覚悟ができない。
そんな程度に上等なレストラン‥‥、ではあるのです。

そこで注文を仕切るのは、マダムの仕事。
耳にやさしい、なめらかな声。
大きくはなく、しかしよく通る声で
今日のおすすめの料理をあれこれ、教えてくれる。
小さな店です。
テーブルとテーブルの間隔は適度に保たれているので
隣の人のおしゃべりが筒抜け‥‥、
というコトはないのだけれど、
でも、マダムの声は良く通る。
なにより、おいしそうな料理の名前が次々、
飛び出してくるのですから、
いけないこととはわかっていても、
どうしても聞き耳を立ててしまう。
特に、ボクらの注文はまだしてはいない。
今日は何が食べられるんだろうなぁ‥‥、
とワクワクしながらテーブルに座っている、
そんなときに、料理の名前。
聞かぬふりをしなさい‥‥、
というのが無理、というものでしょう。

ふむふむ、前菜は野生の水牛のチーズに生ハム。
おいしそうだなぁ。

へぇぇ、今日はフレッシュトマトの
冷たいパスタがあるんだって。

メインディッシュは羊がいいみたいだね。

と、そんなことをひそひそ、
テーブルを挟んで相談をする。
とてもたのしい。
なにより、マダムが同じ説明を二度する手間も省けて、
一石二鳥になるんじゃないの?
そんな言い訳を勝手に作って、
聞き耳立ててみんなで覚える。
覚えるだけじゃ不正確だよね‥‥、って、
とうとう、あるとき、ボクらはメモ帳を取り出して、
マダムがよそのテーブルで
料理の説明をしているその内容を、いちいち書いた。
忘れぬように。
前菜から始まって、パスタにメイン。
本来、そのレストランには存在しないはずの
メニューブックというものを、
そのときボクらは勝手に作ったワケです。
まるで手柄をとったように、ゴキゲンで、
その海賊版メニューブックをみながら、
あれを食べよう、これにしよう、
とマダムがくるまで大騒ぎ。
‥‥、でありました。

マダムが他のテーブルの注文をとり終えて、
ニコニコしながら、ボクらのテーブルにやってきました。
ボクらのオーダーは、もう完璧に決まってました。
そこでマダムをビックリさせてやろうと、
ボクらはマダムのメニュー説明を聞く前に、
めいめい、食べたい料理の名前を告げた。

ボクらはこれだけ一生懸命、
マダムの説明をずっと聞いておりました。
健気な奴らです。
よろしくです。

そんな気持ちを伝えようと、よどみなく、
考え抜いた末の注文をしたのでした。
てっきり喜んでもらえると思ったマダムの顔が、
さーっと曇った。
とてもかなしそうな表情をして言葉も飲んで、
だからそれまでとても元気で活き活きとしていた
ボクらのテーブルの上を、
ちょっと深刻な沈黙が覆ったのでありました。

そしてゆっくり、マダムは口を開きます。

ワタシの仕事を楽にしていただいて、
とてもありがたいのですけれど。
サカキさんには特別のメニューを
用意させていただいてたの。
なかなか手に入らない特別なモノが入荷して、
シェフもサカキさんに食べていただくんだ‥‥、
ってとてもはりきってお待ちしてたのネ。
説明させていただいても、いいかしら‥‥。

ああ、なんてこと。
大失態。
ほんとうに申し訳ありませんでした‥‥、
ってあやまって、気持ちあらたに
マダムの説明を聞きました。

それは本当になかなかお目にかかれぬ野生の肉‥‥、
でありました。
ボクも食べるがはじめてのモノで、
濃厚な味わい、それに負けぬソースが
魅力の一品だという。
それをメインにすえるとなると、
そこにたどり着くまでの前菜からパスタにいたる、
ありとあらゆるものの味のストーリーを
作りなおさなくちゃいけなくなる。

前菜はこれにして、
そしたらパスタはちょっとさっぱりとしたあれでお願い。
よければ、そのパスタはピリ辛味でおつくりしましょうか?
その方が、メインの味が引き立つんじゃないかしら‥‥。

そうそう、これです。
マダムは料理の名前をお客様に告げるのだけが
仕事じゃなかった。
お客様の好みに合わせて。
あるいは今日の料理の流れに合わせて。
おいしい料理をもっとおいしく楽しむための、
いろんなアドバイスまでしてくれていたんだ、
ということを思い出した。
ごめんなさい。
余計なお世話をしちゃいました。
オーダーの最後に再び、みんなでそうあやまった。

いいの、いいの。
でも、ワタシの仕事をサカキさんにとられちゃったら、
ワタシ、失業しちゃうものネ。
それはそうと。
ワタシの声ってそんなに響く声なのかしら?
恥ずかしいわ‥‥。

と笑顔でたのしい食事がはじまる。
結果良ければ、すべて良し‥‥、でありました。

メニューのないお店のメニューは、テーブルごとに書き換えられる。
まさにそういうことなのでありましょう。

ところで特別料理。
メニューにのっていないお料理がある。
そして、その料理にありつくことができるのは、
ほんの一握りの人たちである。

不公平。
でも、これを理不尽な不公平と
責めるコトができるでしょうか?
どうでしょう。

 
2007-05-17-THU