おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。
(四冊目のノート)

ビックリして目が覚めます。

音の方向を見ると、隣の紳士がボクの横に、
スクッと立って笑ってた。
彼がスツールを勢い良く降りたときの音だったのでしょう。
ボクを起こすための音だったのか、
どちらにしてもバーで居眠りという
かなり恥ずかしいシチュエーションに、
頭がカーッとなりました。
大きな音に、バーの他のお客様も、
ボクらの方を怪訝そうに覗き込みます。
ああ、恥ずかしい。

彼が言います。

そろそろ帰ろうと思うのだけれど。
ミスタージェントルマン。
出来れば立って、
握手でボクを見送ってくれないかなぁ‥‥。

ボクは急いで。
でもゆっくりと。
頭の中の脳みそと、
両手両足の神経ひとつひとつを丁寧に、
結んでつないで、失敗せぬよう細心の注意をはらって
バースツールを降りました。
床に足が着くまでの、おそろしいほどの長い時間。
立つとちょっとフラッとしました。
ああ、酔ってるんだ。
そう思い知ります。

彼がゆっくり手を差し出します。
握手なんだ‥‥。
そう思いながら手を伸ばすと、
ヒヤッと右手に冷たい何かがあたります。
見るとボクの手の中には、
小さなグラス一杯分の冷たい飲み物。
薄い褐色。
小さな泡がブクブクしてて、
まるでジンジャエールのように見える。

お飲みなさい。
そう、彼の手に促されゴクッと飲む。
甘味のないジンジャエールのような
苦味に満ちた飲み物で、薬草のような匂いがします。
うがい薬をソーダで割って飲んだような、
そんな爽快感が喉からおなかに行き渡り、
飲んだ途端におなかと頭がシャキッとした。
目が覚めた。
そんな感覚。

そうして握手。
彼はボクの両手を自分の両手で握りつつ、
このレッスンの最後の仕上げを一気にします。

いわく。
どんなバーでも10ドルも出せば
2杯から3杯を楽しむことが十分できる。
お釣りはそのままチップとして、おいて行けばよい。
10ドル分をキチンと飲んで、
そのおつりをバーテンダーに渡してもなお、
シャキッとスツールをおりてまっすぐ、
出口まで歩くことができるようになったら、一人前。
お酒をたのしむ資格を持った男になった、というコトです。
‥‥、ということを、ボクの目を見ながら一生懸命。

10ドル分を飲みきることが出来なかったとき。
それは絶対、ハシゴしてはならないという合図なんだよ。
それから今日の、君のように、
お釣りを持ってかえるのを、
忘れてしまうくらいにたのしく気持ちよくなったのならば、
それを残して帰ればよい。
ましてや、さっきのような魔法の気付け薬を
飲ませてくれたバーテンダーには、
たとえお釣りの中に5ドル紙幣が残っていたとしても、
笑顔でお休み。
そういう気持ちが必要なんだよ。

そういい残し、彼は颯爽とバーのドアを開けて、
街の中に溶けていった。

夢のような出来事でした。
一人になって、再びバースツールにストンとすわり、
そしてリッコに指で合図。
さっきの魔法の気付け薬は何ですか?

クラブソーダにビターを溶かした、
ビターソーダでございます。

それ、もう一杯とおねだりをして、
そして先ほどまでボクの隣にいた
紳士のことを聞こうと思った。

お名前は?
いえいえ、それはお客様のプライバシーでございますから、
ご勘弁願います。
ワタシの名刺を残していくから、
もしこられたら渡していただくことはできませんか?
確実にお約束できること以外は
出来ぬのが私たちの仕事でございますから、ご容赦を。

なるほど、バーとはこうして
お客様との信頼を勝ち得て行くものに違いない。
そう思い、その日はカウンターの上に
5ドル少々を残したままでバーを出た。

男が背筋を伸ばして飲むということ。
酒をたのしむというコトは、
自分の節度をたのしむというコトであり、
つまり大人が大人になるための
トレーニングのひとつでもある。
そんなことを思い知る。
ありがたいなぁ‥‥、とつくづく思い、
それから3日間ほどの滞在中、
毎晩、時間を見つけてはそのバーに行き、
その紳士に会ってお礼をせねば、と思いつつ、
しかし果たせず、もう四半世紀。

果たせぬ夢のあることも夢。

貧しくなりつつある予感にあふれた、
1980年当時のアメリカ。
その貧しいという実感が、
歩道を覆う石畳の一枚一枚にまで
ミッチリしみこみつつあるほどの
絶望感に覆われていたニューヨークという街。
そこにあって、それでも大人の男の人たちの、
酒飲む姿の美しきこと。
この国は、貧しくあっても、
心までも貧しくなることはないのかもしれない。
そんなことを思ったりした。
ボク、まだ20代。
ちょっと大人になりました。

 
2007-07-26-THU