総武線猿紀行第284回
「黒沢進さんの思い出
〜グループサウンズを甦らせた男」
その2
前回に引き続き、黒沢進さんについて。
異例ですが、イベントの告知だけ、しつこいですが、
先にさせて下さい!
彼の死を惜しみ、
来る日曜日に追悼コアトークを開催します。
二度と集まれないだろう、豪華なメンバーです。
このイベントの収益は全額遺族に寄付させていただきます。
どうかふるってご参加下さい。
コアトーク:GS最前線番外編
「追悼!黒沢進を讃える史上最大のGSショウ」
日時:2007年6月10日(日)10:30 OPEN / 11:00 START
出演:根本敬&湯浅学&船橋英雄(幻の名盤解放同盟)、
土龍団(濱田高志、トニー吉田)、
サリー久保田(元ザ・ファントムギフト)、
篠原章、町井ハジメ
歌唱:渚ようこ、いちかたいとしまさ
告知外:田中光男(元アイドルズ)、小野良造、
岸野雄一、エミリー田中
進行:サエキけんぞう、大森眸、サミー前田
追悼メッセージ発表:小西康陽、安田謙一、松永良平他
会場:ロフトプラスワン
TEL:03-3205-6864
http://www.loft-prj.co.jp/
料金:前売・当日共 ¥3000(会場にて前売りあり)
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GSを知っている人も、どんなのだろう?
と好奇心ある方も、
エキスパート&入門編どちらのイベントとしても、
有意義かつ楽しいものにいたしますので、
どうかふるってご参加ください!
さて、今回は、音楽評論家で僕のイトコの
篠原章の特別追悼文を紹介したいと思います。
この文章は、黒沢さんの死の後、
すぐに僕に寄せられた物ですが、
僕のブログにコメント欄に、
ささやかな分割掲載をさせていただきました。
今回は、全文の一括掲載をこちらにさせていただきます。
どうかお読み下さい。
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「黒沢進さんのこと」
音楽評論家、というより
日本のGS研究・フォーク研究の最高峰・
黒沢進さんが故郷の秋田県角館で亡くなられた。
享年52才だった。
60年代後半〜70年代前半に展開した日本のポピュラー音楽、
とくにフォークとかロックとかいわれる音楽は、
ぼくにとって音楽体験の出発点であり、足枷であり、
希望であった。たんなるノスタルジーではなく、
そこには時代を理解し、自分という存在を解明する
「鍵」があると20代のころから強く感じていた。
そんな思いをわかちあえる人間など
まずいないと思っていたら、
偶然にも従弟でミュージシャンのサエキけんぞう
(パール兄弟)が“同族”であることを知った。
そのサエキから、八百屋を営みながら
『リメンバー』という音楽研究誌を発行している
高護さんを紹介されたのは85年のことだったと思う。
高さんと初めて話したのは、今は無き新宿の
「第三倉庫」(伊勢丹経営)という
スペースだったような気がするが、
場所の記憶には自信がない。
放送作家の景山民夫さんのイベントが開かれた
会場だったことはたしかだ。
古くからの友人・川勝正幸君(エディター&ライター)や
岡崎京子さん(漫画家)も
その場に居合わせたような気がする。
あのとき高さんから、
日本のフォークやロックの「研究書」である
『日本ロック大系』という本を企画しているから、
一緒にやらないかと誘われ、
ぼくも気軽に引き受けてしまった。
その本はなんと5年もかかった。
中村俊夫さん、市川清師さん、
管岳彦さんなどの音楽誌『ミュージック・ステディ』
(『ロック・ステディ』)系のライターの方々や、
旧知の音楽評論家・湯浅学さんなどと
ご一緒させていただいたが、なかでもひときわ
大きな存在だったのが黒沢進さんだった。
黒沢さんは、すでに『リメンバー』誌上で
GS研究を発表していて、
フォークについても貴重な資料を
収集・解析しつつあった。その
知識と研究意欲には舌を巻いた。
大いに触発された。
その後しばらく、ぼくは黒沢さんの書いた物を見本に
原稿を書いた。
黒沢さんという先達がいなければ
<音楽評論家・篠原章>は存在しなかったということである。
80年代の終わりから90年代にかけては、
高さんの企画とマネジメントで、
60年代・70年代前半の日本のフォークやロックが
次々にCD化された。
いうまでもなく日本のフォークやロックの
最初のCD化である。
カタログやパンフレットの作成、
ライナーノーツの執筆と発注は、
高さん、黒沢さん、そして篠原の三人が手がけた。
マスタリングも立ち会った。
ニューモーニング(日本フォノグラム・徳間音工)、
ベルウッド(キング)、URC(キティ)、
ポリドール・・・。
黒沢さんと高さんは、
この他にもジャックス関連の復刻CDと
『定本ジャックス』も手がけている
(はっぴいえんど派の篠原はジャックスには
関わらなかった)。
黒沢さんとの仕事でいちばん印象に残っているのは、
やはりURCの復刻作業だ。
日本のフォークの真の意味での原点となるレーベルである。
高さんが入手したマスターテープは、
キティレコードのそばにあった倉庫(目黒区青葉台)に
預けられていたが、
黒沢さんはその膨大なマスターテープを、
倉庫に持ち込まれた機材を使って
ひとつずつチェックする作業を引き受けてくれた。
「ひょっとしたらさ、すごくレアな音源が
混じっているかもしれないじゃない!」
寒風が吹き込む凍てつくような倉庫だったが、
電気ストーブに手をかざしながら、
マスターテープのチェックにいそしんでいた
黒沢さんの嬉々とした表情を今も忘れることが出来ない。
ぼくはといえば、あの寒さに負けて作業を早速と諦め、
もっぱら差し入れ係に徹する楽な道を選んだ。
その頃のことだったろうか。
辛い作業のつづくなか、
高さんがふと漏らした言葉がある。
「ぼくたちのやってる仕事って、
何十年か後に評価されるようになるのかな?」
「“ぼくたち”って誰よ」
「だからさあ、黒沢君と篠原君とぼくが
一緒にやってる仕事だよ」
「その三人だけ? 他にもいっぱいいるじゃない」
「でも、歴史的に評価される
可能性のある仕事をしているのは、
この三人ぐらいでしょ」
高さんの問いに何と答えたかあまりよく憶えていない。
当時のぼくは小生意気であおっちろく、
妙に鼻息の荒い経済学の駆け出し研究者だったから、
煙に巻くような答え方をしたかもしれない。
“まだまだちゃんとした研究にはなっていない。
むしろ、これからだよ”とかなんとか。
でも、正直言うと心の中では誇らしげに思っていた。
黒沢さんと高さんの“同志”として
ぼくも認められているんだ、と。
あれから十数年。まさかの訃報である。
大学の仕事が忙しくなり、
沖縄との関わりが深くなるにつれて、
黒沢さんともお付き合いは薄くなってしまったが、
黒沢さんに引っ張られるようにして歩いてきたんだ、
という「歴史的事実」と「自負」は一度も忘れたことがない。
日本のポピュラー音楽研究も
今や市民権を得てきたように見えるが、
本当の意味で価値のある「業績」は、
黒沢さんの仕事以外にほとんど見あたらない。
「感想」や「思い込み」や「屁理屈」を
研究や批評と勘違いする連中が多いなかで、
事実を発掘し、それを的確に整理・解釈する手法は、
黒沢進をもって嚆矢とする。
黒沢進は、容易に乗り越えられない巨星なのだ。
日本のポピュラー音楽を執筆・研究の対象とする
評論家・ライター・研究者は、
その事実を重く受け止めるべきである。
黒沢さん、ほんとうにありがとう。
感傷でも世辞でもない。
手向けの言葉は「ありがとう」以外に見あらない。
合掌。
篠原 章
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▲左からサエキ、加瀬邦彦さん、
植田芳曉さん、黒沢進さん、大森眸さん
黒沢さんの仕事ぶりや、人柄が偲ばれると思います。
できましたら6月10日、日曜に!
また、パール兄弟のライブもよろしかったらどうぞ!
(この項終わり)
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