MUSIC
虚実1:99
総武線猿紀行

第12回
「ライブハウスがやってきた! ヤアヤアヤア!」
(その1)

僕は歯科医のはしくれでもある、歯科医のロッカーだが、
そもそも歯科医になる事を考え出したのが、小学校5年生。
小学校3年まではかなり本格的な天文少年で、
反射式赤道儀まで買ったぐらいだった。
(11月18日の流星群、楽しみですねえ)

ところが、忘れもしない1968年、
つまり僕が小学校3年の年だ。
突然、総武線は市川あたりの空から星が消えた。
それまではコンスタントに五等星まで見えた空が、
急に二等星(せいぜい三等星)までしか見えなくなった。
(六等星までが肉眼で見ることが可能の明るさである。)
直接的にはかなり巨大なネオンが、
町中にその年いくつかできたためであった。
そして、空気の透明度がかなり急激に落ちたとも思う。

現在、茂原のような千葉の田舎の町に行って
「すごい広い、深い(距離感がある)空だああ!」
と思うのだが、
東京都内や市川だって、1967年ぐらいまでは、
コンスタントにあのくらい深い空だった。
その模様は、例えば、クレージーキャッツ映画の、
前期作品群で観察できる。
60年代の微妙な時期に撮られているので、
空の綺麗さがよくわかるのだ。
国会議事堂付近でもなんでも、
空が札幌で撮影したように美しい。
市川では'68年ごろに急に空から星が消えたわけだ。
広く言えば、60年代後半に東京23区
およびその付近から星が消えたのではないかと思う。

というわけで、僕は天文少年の道を
断念しなければならなかった。
金星や木星、土星といった明るい惑星は、
空が汚くなっても手軽に観察できるのであるが、
何百万光年離れたロマンが香る星雲、星団や、
素人にも発見の夢踊る“彗星”となるとそうもいかない。
小学生ではあったが、
アンドロメダ大星雲や、ヘラクレス座星団など、
そこそこ本格的な星雲を観察し始めていた
天文少年にとって、空気の汚染は痛かった。
すでに3年のキャリアを持っていた天文少年は、
夜店で買った金魚の世話を忘れるように
天文をあっさりやめた。
なぜか別に悲しくも何ともなかった。

というのは、ゴールデンカップスやスパイダース、
タイガースといったグループサウンズが、
TVからあふれ出て来て、夢中になったからだ。
そしてほどなく彼らがカバーしているビートルズ、
ローリングストーンズといったグループの音楽も
同時並行で聞くようになった。
愛読誌は「ミュージックライフ」で
愛聴ラジオは土居まさるの「ハローパーティ」、
亀淵昭信の「ポップスベストテン」。
愛視テレビは大橋巨泉の「ビートポップス」、
黒沢久雄や小山ルミなどの「ヤング720」、
そして、巨泉、前田武彦の「ゲバゲバ90分」だ。

おそらく、遅かれ早かれ、
僕はロック少年になっていたとは思うが、
この '68年という年が、後の路線決定には決定的であった。
ダイアナ・ロス&シュープリームス、
1910フルーツガムカンパニー、ビージーズ。
バーズやクリーム、バニラファッジ、
フランシス・レイといった多彩なグループが
チャートをにぎわした。
ラジオを聞いていれば、サイケ、ソウル、
ヘヴィーロックから、フランス映画音楽、
カンツオーネまで、
タワーレコード渋谷店の1階から6階ぐらいまでの
全ジャンルのように、手に入らない音楽はなかった。
というか、ポップスというくくりに
ゴチャマゼになっていたのだ。
だから、今でも僕はワールドミュージックでも
名盤解放同盟でもなんでも聞くし、
どのジャンルにも首をつっこみたがるのだ。

というわけで'68、'69年当時、
ロックはまだあまりポップスから分化してなかった。
ジュリーやショーケン、かまやつさんが
必死にロックをがなっていても、だ。
そして、当時はもちろんロックのライブハウスなどなく、
あるのはジャズ喫茶という名前の、ジャズではなく
グループサウンズが生演奏を聞かせる場所と、
ロック、ソウルがかかり、不良が集まるディスコであった。
(ちなみに市川・本八幡にも当時ディスコがあったのです!
現在でも、本八幡にはクラブが2軒もあるのです。
不良の街なのです。)
本格ロックを聞かせるライブハウスの誕生など、
まだまだ夢の夢であった。

(つづく)

1998-11-16-MON

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