MUSIC
虚実1:99
総武線猿紀行

第14回
「ライブハウスがやってきた! ヤアヤアヤア!」
(その3)

(前回あらすじ) ライブハウスが自分の街にできる、
それはロック少年である子供の頃からの夢だった。

千葉県のライブハウスはまず、千葉にできた。
1975年。ライブハウス「マザース」がそれだ。
開店記念には「四人囃子」が出演した。
高校時代の1976年にはここで自分のバンド
「少年ホームランズ」のライブをやり、
大瀧詠一の「福生ストラット」のカバー
「西千葉ストラット」をやった。

「西千葉いきの切符買ってえ、(お茶飲みいにい)
 グウタラ生まれる街。
 ドンドン生まれるまちい! いよりよりより!」
この詩には当時、全盛を極めた千葉ロックシーンの
先輩や仲間たちが西千葉のサテンに集合していた状況が
こめられていた(というほどおおげさなものじゃないけど)。

1970年代中盤の地方には、どこにも、
こうしたライブハウスを中心として、
そこそこのバンドシーンができていた。
グレートフルデッド、ザ・バンドなど、今だったら
ヒップホップのコアシーンを彷彿させるような
楽器ができるマニアが中心になっていた。
その中には西海岸に放浪ツアーにいっちゃうやつが
必ず数人はいたと思う。

しかし、1976年、
イーグルスの「ホテルカリフォルニア」が
「カリフォルニアにはもうなにもないよお〜〜〜」(意訳)
と歌ってヒットするころに、西海岸にいった人は、
必ず、自分が夢に思い描いていた「フラワー」で
「ピース」、「サイケ」なロックシーンが
すでに西海岸から消滅していたことに愕然としたという。

フラワー・ヒッピーの残党は、
例えばサンフランシスコでは、手作り製品(バッチなど)の
物売りお兄さんとして、街では認知されていたという。
彼らが集まる場所は、例えば線香の香りする
抹香くさい部屋で、宗教色が強くかんじられたという。
(具体的な宗教はもちろんない。これらのうちの何人かは、
 ニューエイジに走ったと思われる。)
現在のコンピュータサブカルチャーの
原型を作ったのもそういった人たちといわれている。

同時期にグレートフルデッドのジュリー・ガルシアは、
ニューミュージックマガジンに載ったインタビューで、
「『革命は終わった』とガルシアは
 目を閉じて静かに語った」
と記されていた。

カクメイがおわったあ? だとお?
おのれえ、いつ革命をしたんじゃい?
このマリファナぼけがあ?

と、高校1年のロッククソガキである僕が
正直思ったということは告白しておこう。
ガルシアの発言に対する違和感はいまだにぬぐえない。
ロックによる革命幻想の、あまりにも無責任な抽象性は、
いまだになじめない。
もちろん昨今は、そんな論議はされなくなって
スズしくなったが、当時は常にそんな話が
真剣にされていたと思う。

現在のアメリカには、グランジシーンを中心に
ロックは完全に風土に土着したが、それには、
80年代初期のカーズ、B-52などの
ニューウェイブ時代を超えて、ジリジリと着実に
消費をのばし続けたロックの商業的な奮闘がある。
グレートフルデッドも、
一時は消滅の危機があったようだが、ツアーを中心に
動員を延ばし続け、80年代後半には全米最大の
ライブバンドにのしあがった。

しかし、ロックがそういうふうに80年代巨大になる前の
76年頃には、いったん、売上が減って
ダメになりそうになった時期をくぐっていたのだ。
日本でもアメリカでも。

76年にカリフォルニアから帰ってきた
ロックフリークの知り合いは、ロックはもうだめだと、
とてつもない大ショックを受け、そのままグッチなどの
ブランドで身を固めて転向。後に田中康夫が書く
クリスタル族の先駆となっていった。
(あの小説が描かれた時代背景には、
 実際に存在したそういった若者がいたのだ)

そんな時代から10年。
米国でもロックが巨大になった80年代後半になり、
ついに我が街本八幡にもライブハウスができた。
ライブハウスはついに我が街にやってきたのだ。
それは“ルート14”という店だが、オープニングに
どんとのボ・ガンボスが出た。
応援に行きたかったのだが、その日は親戚の子供を連れて、
ディズニーランドに行かねばならなかった。

続いて隣町の市川には“ジオ”という比較的大きな
ライブハウスができた。
ここは外国タレントも出演させるという
大胆不敵なコンセプトで出発した。
デイヴ・メイスンやマキシープリーストがやってきた。
しかし、市川にやはり外国タレントはなじまなかった。
40分で日本武道館に行ける地方都市・市川に
外人の出るライブハウスはいらなかった。

“ルート14”には我がパール兄弟も出演した。
故郷に錦を飾ったといえよう。
小学校に通い続けたなじみの信号を、
ベースのバカボン鈴木が横断した。ちょっと感激した。

打ち上げが終わって15分後には
家でパンツを洗濯機にいれていた。

洋服仕立て屋の奇人「ジャガー」の
「ジャガーカフェ」もできた。
ここはジャガーとジャガーの知り合いしか、出なかった。
(現在は店員の金銭持ち逃げ事件以後、閉鎖中)

それから8年。
なにかライブハウスがまたできるという噂が街に流れた。
市川市にはロックライブハウスがすでに2軒。
ジャズライブも2軒。
クラブに至っては、なんと4軒以上あるようだ。

もはやライブハウスができるといわれても
なにも感激はない。
しかし、またできるというのである。
何の宣伝もないまま、新しいライブハウスは、
トイザラスやダイエー、スポーツセンターなどが入った
郊外型ショッピングセンター
「コルトンプラザ」の中にできた(らしい)。

ところが、できてしばらくして、家賃が払えないという
理由で、そこを出なければならなかったようだ。
その店があった付近には現在、ドレッドヘアーの
ダンスのグループが出没して、ラジカセを置いて
勝手にダンス練習をしている。

そして、今度は我が家の至近距離の近所に
そのライブハウスが移ってくるという噂が流れた。
今年に入ってのことである。
えええ、いよいよ小さい頃からの夢であった
我が家のライブハウス化に近い状況だ。

いちゅできるのだろう。
と思っている矢先、夜に歩いて帰る途中、
我が家から歩いて1分の喫茶店「ブリオ」と
居酒屋付近に、髪を染めた若者の集団がたくさんいた。
座り込んだりして、ほとんど動かずノロノロ行動し、
そこを通り抜けるのが非常にうざったい。
居酒屋の客か?
ほんとに居酒屋付近の集団の若者は邪魔だ。
以前にはその居酒屋には、
そんなに若者がいなかったので、
メニューでも変えて人気が出たのだと思った。

そんな事に月に2回ぐらい遭遇するようになって
2カ月後の太陽が傾きかけた夏の午後、久しぶりに
喫茶「ブリオ」にいった。
ここは画家の若者風オヤジがやっている店で
各種漢方ティーがそろっており、
僕は強精のイカリ草を中心にした
「サエキ専用ブレンド」を飲ませてもらっている。

「噂の真相」や「日経ビジネス」、新聞数紙、
モーニング、ヤンマガ、文春、現代など、
いまどきの喫茶店にしては豪華に雑誌完備で、
音楽もロックを中心にそこそこ造詣が深い。
そしてなんてったって画家。
ミロのような自作抽象画が店内に貼りまくってある。
カウンターにはオヤジと話す事が
目的と思われる女性が必ずいる。

久しぶりではあったが、いつものように入り、
日刊スポーツとモーニング、
ヤンマガをわしづかみにして「いつものアレね」
と日本全国共通・常連の常套句を
はいた直後のことである。
「ぐわわわわあわわ〜〜〜〜〜〜ん」
という轟音が店内に鳴り響いた。
うひゃあ、なんだ、これは!

「リハーサルが始まったんですよ」と
若いころには江口洋介風といわれた可能性もなくはない
長髪のマスターが、ニガニガしくいった。
「エエ? ライブハウスって、この下にできていたの?」
「あれ、サエキさん知らなかったんですか?
 時々若者がタムロしているでしょう。」
グワワアワ〜〜〜ン♭、
おーーまーーーええのすべてをうをう、
うばってやるうう♪!!!!

5メートル離れた二人の会話に
支障があるほどの爆音と歌声と振動が
階下から伝わってくる。
「全く商売にならないんですよ!」
確かにこれではうるさくて、
スパゲッティを食ったりするどころではない。
「ここの大家の意識が低いから、
 コルトンプラザを追い出された先方を
 勝手に入れちゃったんですよ。」
「まあ、不況ですから
 テナントもなかなか入らないですからねえ。」
「でも、ライブハウスがなんだかも
 知らないで入れちゃったんですよ。それで、このザマ。
 防音は2回も強化したみたいだけど全然ダメ。」
「ううん、大変ですねえ」
「それで、大家を告訴するんですよ。
 意識が低いからこういうことが起こるんだから。
 思い知ってもらわないと困るんです。」

コ・コ・コ・ク・ソオ?
そうか、こういう場合、
ライブハウスを怒ってもしょうがないのか。
正式な賃貸契約はしているわけだから。
ブリオのマスターの目には
星飛雄馬のように炎が灯っていた。
そらそうだ。
これから数々の面倒臭い手続きと、
かなりの金銭出費を伴う裁判だ。
勝っても平和な日々が戻ってくるとは限らない。

それにしても、このライブハウスはなぜ、
全く宣伝をしないのだろう。
いまだに店名もわからない。
大きな目立つ看板もなければ、チラシも撒いていない。
どうやら、今の地方ライブハウスは、
出演バンドが客をクラスコンパのように連れてくるから、
宣伝の必要がないらしい。

ビジターなんかそう簡単に見に来るわけないといえば、
ないのだ。
だからといって、そんな閉鎖的でよいのだろうか?
ゾロゾロと列をなして友人客はライブに訪れ、
終われば、二次会を決めかねている
大学生サークル集団のように
いつまでも店の前に座り込んでウダウダする。

僕がかつて思い描いたロックライブハウスは、
思えば、カリフォルニアやロンドンと繋がった
インターナショナル・スペースだった。
そこでは、若者は全員サムライで、
個人の雰囲気を大切にしていた。
オールマンブラザースが鳴れば、
心は南部アメリカの広大な世界が広がった。
どんなに狭い部屋でも、そこは妖しく、
タバコをくゆらせた女が光って知性的に見え、
新しいレコードは世界を次々と鮮やかに塗り替えていった。

家の至近距離の「ブリオ」の下で群れをなす茶髪の集団は、
その末裔には違いないのであるが・・・。
かつての僕の夢は実現されるにはした。
歩いて1分のライブハウス。
もし、出演したら、リハーサルと本番の合間に、
家で晩飯が食える。
ホンペンが終わったら
そのままアンコール出演までに
シャワーを浴びて着替えることさえ可能だ。

しかし、そのライブハウスのもたらす騒音に対し、
ロックで育った長髪のマスターが告訴の刃をむいている。
パブリックの匂いのしない近所のライブハウス。
まだ、「ブリオ」の方が
パブリックな存在のような気がする。
ロックを聞きに来る客は、
もちろん僕にとって味方だと思っているし、
そのバンドは応援したい。
しかし、姿を現さないライブハウスに
愛着がわきようがないのも現実なのだ。
義理からも心情的にも僕はマスター側の人間であることを、
確認せざるを得なかった。
カ・ナ・チ・イ!!!!

たしかに「革命」は終わったのかもしれない。

(おわり)

1998-12-10-THU

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