『敗北の構造』あとがき
この講演集は、弓立社を創設した宮下和夫氏の執念の産物のようなものである。わたしに迷惑や患わしさを感じさせまいとして、気をつかって、隠れるようにしながら、テープ・コーダーを肩から提げてどこへでもでかけ、かれの手にで録音し、また、かれの足で探しだした記録が、ほとんど全てである。その労力は、言葉に絶するといってよい。けれど、もっと辛かったのは、その間の心的な体験だったかもしれない。あるときは主催者から、うさん臭気な眼でみられ、あるときは吉本エピゴーネンなどと陰口をたたかれ、もっとひどい場合、吉本を「だし」にして、物心ともに寄っかかって商売をはじめようとしているなどと悪評された。わたしのほうでも同様だ。あいつはとりまきに担がれていい気になっているという批判はいつも宮下氏のような存在と「こみ」にして蛆のように湧きあがった。しかし、わたしはかれらを嘲笑するだけだ。「ためし」に、わたしの著作やお喋言りから、良きをとり悪しきを捨てて摂取するとか、影響をうけたなどというだけで、宮下氏のような労力を払えるかどうかやってみるがよい。また、じぶんの著書は、できるだけジャーナリズムに高く売りつけたい著作家などに、わたしがやっていることが、できるかどうか試してみるがよい。かれらには、宮下氏のような存在や、わたしなどの根底にある、<放棄>の構造が判るはずがないのだ。ちょっとしたオルガナイザー気取の男たちの存在などは、底の底までお見徹しで、どうってことはないが、宮下氏のような存在には、黙ってだまされてもよいと思っている。
講演を依頼されると、大抵はすぐに逃げることにしているが、それでも幾つかの依頼のなかで、どうしても行くことになる場合があった。その理由は二つある。ひとつはまったく私的なもので、この人の依頼ならば、だまされても、誤解の評価をうけてもいいという契機がある場合である。もうひとつは、大なり小なり公的なものである。かつて、戦争中から戦後にかけて、わたしは一人のなんでもない読者として傾倒していた幾人かの文学者がいた。かれらが、この状況で、この事件で、どう考えているかを切実に知りたいとおもったとき、かれらは、じぶんの見解を公表してくれず、沈黙していた。もちろん、それぞれの事情はあったろうが、無名の一読者としてのわたしは、いつも少しづつ失望を禁じえず、混迷にさらされた。もしも、わたしは表現者として振舞う時があったら、わたしは、わたしの知らない読者のために、じぶんの考えをはっきり述べながら行こうと、そのとき、ひそかに思いきめた。たとえ、状況は困難であり、発言することは、おっくうでもあり、孤立を誘い、誤るかもしれなくとも、わたしの知らないわたしの読者や、わたしなどに関心をもつこともない生活者のために、わたしの考えを素直に云いながら行こうと決心した。それは戦争がわたしに教えた教訓のひとつだった。わたしは、まだ、この教訓を失っていない。この講演集は、読者が公的とおもえるところで案外私的な契機に根ざしており、私的だとおもえるところで、案外公的な契機に根ざしているところがある。わたしの読者は、まだまだわたしが<情況>を失っていないと信じてくれて結構であり、<情況>が大切なところで、わたしの判断や理解の仕方を知ることができるはずである。手に負えなくなったら、「ちゃんと」手をあげるだろう。まだ、大丈夫だ。
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