『吉本隆明 五十度の講演』に収録されている音源は、
すべて弓立社の宮下和夫さんが
何十年にもわたって集めてこられたものです。
ほぼ日刊イトイ新聞では、宮下さんのご協力のもと、
講演音源を引き継いで、
デジタルアーカイブ化を実現していくことにしました。
吉本隆明さんの講演について、また、
音源を集めることになった経緯について
宮下さんにおうかがいしました。



吉本さんの講演会に行くようになったのは
たしか1961年で、僕は大学2年生でした。
ちょうどそのころ吉本さんは
「試行」という雑誌を出しはじめたところで、
僕は購読申込のために、ご自宅に伺ったこともあります。

講演会を録音しはじめたのは1966年。
この年、吉本さんの評論集
『自立の思想的拠点』を出版しました。
そのころ僕は大学を卒業して
徳間書店で編集者として働いていたんです。
「吉本さんが大学の文化祭にたくさん出るみたいだよ」
と友人から聞き、会社の了解をもらって
それを本にしようと思ったんです。
『情況への発言』という本は、こうして
1968年に出版されました。
吉本さんが講演会の記録を本にしたのは
これが初めてです。



1972年に、僕は弓立社という
出版社を立ち上げました。
独立することになった要因のひとつに、
吉本さんの講演を録音したいということがありました。
会社の許可を取らずに
好きなときに録音することができますからね。
そうやって、弓立社の発行で
最初にできた本が『敗北の構造』です。
これは、よく「あとがき負けだよね」と
仲間に言われて困る本です。
自分でもそう思っています。

それくらい吉本さんによるあとがきが印象的でした。

吉本さんは主催者からテーマを与えられて
講演の準備をされます。
ひとつの講演のために最低1週間、
2〜30枚の論文を
書くくらいの準備をするのだそうです。
ですから、オファーがないと
考えることがなかったテーマも多いんです。
「良寛」や「農業論」は、そういう講演です。

吉本さんは自分の持っているものを
十全に伝えたいという欲求があるせいか、
言い換えを何度もしながら話します。
吉本さんは、言い換えのために違う言葉を選ぶとき、
必ず広がりが生まれてくる言葉を選ぶんです。
一行の中で繰り返しが何度も行われるから、
渦を巻いているように話が変化していく。
うまい講演者ではないんだけど
ドストエフスキーの小説のように
熱気を帯びて渦を巻いた講演がたくさんあります。
なかには、時間の制限があったせいかもしれませんが
最後の10分から15分くらいを
ものすごい勢いで話している講演もあります。
とてつもない早さで
しかも高度なことをわかりやすく話そうとする、
学校の授業などでは味わえない
他に類をみない熱気のある講演だったと思います。

録音をはじめて最初の頃は
客席の真ん中あたりに座って、録音していました。
当時は音源を商品にすることは
考えていませんでしたから。
とにかく目立たないようにして録音することを
こころがけていました。
テープ起こしさえ出来ればいいと思っていました。
マイクを立てたこともあるんですが、
倒れたりするし、がさごそと音も入るので、
マイクを使わずに録音することが多かったです。
今回、商品となった音源のなかには
周囲のお客さんの話し声が入っていたり
雑音が入っているものがけっこうあります。

1960年代に録音をはじめたころは
デンスケとよばれる
オープンリール式のテープレコーダーを
講演会場に持ち込んで録音していました。
これがずっしり重いんです。
最初は7インチや5インチのテープを使っていたから
デンスケも大きいんですけど
3.5インチの小さいテープが世に出はじめると
テープレコーダーも小さくなって
持ち運びも録音も楽になりました。
カセットテープが出てからはさらに楽になりました。



吉本さんの講演はだいたい90分の予定なんですが、
ほとんどの場合、超過します。
質疑応答が120分もあることも珍しくありません。
いちばん長いもので6時間30分も
質疑応答をやったこともあるそうです。
不思議なことなんですけれども、
暗黙の了解のように
講演よりも質疑応答のほうが長いんです。
90分テープを3本持っていったのに
足りなくなって、後半をあきらめたこともありました。

やっぱり吉本さんの講演はおもしろいです。
吉本さんの著書の内容を追いかけたい僕にとっては
講演はその補足でもあるわけです。
どの講演もおもしろいんですが
何度もテープ起こしを読み返しながら聴いたのが
『「生きること」と「死ぬこと」』という講演です。
あれはほんとにびっくりしました。
生のどのような場面にも援用できる考え方が
あの講演には、詰まってます。

本にすることがきっかけではじめた
講演の録音でしたが、
本当は、自分が楽しみたいという動機だけで
たくさんの講演を録音してきたんだと、
振り返って、思います。





『敗北の構造』あとがき

 この講演集は、弓立社を創設した宮下和夫氏の執念の産物のようなものである。わたしに迷惑や患わしさを感じさせまいとして、気をつかって、隠れるようにしながら、テープ・コーダーを肩から提げてどこへでもでかけ、かれの手にで録音し、また、かれの足で探しだした記録が、ほとんど全てである。その労力は、言葉に絶するといってよい。けれど、もっと辛かったのは、その間の心的な体験だったかもしれない。あるときは主催者から、うさん臭気な眼でみられ、あるときは吉本エピゴーネンなどと陰口をたたかれ、もっとひどい場合、吉本を「だし」にして、物心ともに寄っかかって商売をはじめようとしているなどと悪評された。わたしのほうでも同様だ。あいつはとりまきに担がれていい気になっているという批判はいつも宮下氏のような存在と「こみ」にして蛆のように湧きあがった。しかし、わたしはかれらを嘲笑するだけだ。「ためし」に、わたしの著作やお喋言りから、良きをとり悪しきを捨てて摂取するとか、影響をうけたなどというだけで、宮下氏のような労力を払えるかどうかやってみるがよい。また、じぶんの著書は、できるだけジャーナリズムに高く売りつけたい著作家などに、わたしがやっていることが、できるかどうか試してみるがよい。かれらには、宮下氏のような存在や、わたしなどの根底にある、<放棄>の構造が判るはずがないのだ。ちょっとしたオルガナイザー気取の男たちの存在などは、底の底までお見徹しで、どうってことはないが、宮下氏のような存在には、黙ってだまされてもよいと思っている。
 講演を依頼されると、大抵はすぐに逃げることにしているが、それでも幾つかの依頼のなかで、どうしても行くことになる場合があった。その理由は二つある。ひとつはまったく私的なもので、この人の依頼ならば、だまされても、誤解の評価をうけてもいいという契機がある場合である。もうひとつは、大なり小なり公的なものである。かつて、戦争中から戦後にかけて、わたしは一人のなんでもない読者として傾倒していた幾人かの文学者がいた。かれらが、この状況で、この事件で、どう考えているかを切実に知りたいとおもったとき、かれらは、じぶんの見解を公表してくれず、沈黙していた。もちろん、それぞれの事情はあったろうが、無名の一読者としてのわたしは、いつも少しづつ失望を禁じえず、混迷にさらされた。もしも、わたしは表現者として振舞う時があったら、わたしは、わたしの知らない読者のために、じぶんの考えをはっきり述べながら行こうと、そのとき、ひそかに思いきめた。たとえ、状況は困難であり、発言することは、おっくうでもあり、孤立を誘い、誤るかもしれなくとも、わたしの知らないわたしの読者や、わたしなどに関心をもつこともない生活者のために、わたしの考えを素直に云いながら行こうと決心した。それは戦争がわたしに教えた教訓のひとつだった。わたしは、まだ、この教訓を失っていない。この講演集は、読者が公的とおもえるところで案外私的な契機に根ざしており、私的だとおもえるところで、案外公的な契機に根ざしているところがある。わたしの読者は、まだまだわたしが<情況>を失っていないと信じてくれて結構であり、<情況>が大切なところで、わたしの判断や理解の仕方を知ることができるはずである。手に負えなくなったら、「ちゃんと」手をあげるだろう。まだ、大丈夫だ。

吉本隆明
昭和四十七年十一月二十五日 



宮下和夫(みやした・かずお)
弓立社代表。

学研、主婦と生活社を経て
徳間書店で6年、評論を中心とした
文芸書の出版に関わる。
1972年弓立社設立。
吉本隆明さんの著作から、歴史書、
『東京女子高制服図鑑』『テレクラの秘密』まで
幅広い出版物を発表している。

(C)HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN