経済はミステリー。
末永徹が経済記事の謎を解く。

第40回 取引費用


(※悲しいことながら、人間は
  それほど思いやりに満ちた動物ではなく、
  人間が経済的に合理的に行動すると、
  外部不経済が発生して、
  社会全体の利益を最大にしない。
  どうすればいいのだろう?
  ・・・という前回から続いてます)

こういう問題を最初に考えた経済学者は
ピグーという人で、ピグーは
「厚生経済学」という本を書いた。
「経済(エコノミー)」も「厚生(ウェルフェア)」も、
もともとは、
「みんなが豊かになること」を意味する言葉である。
 
歴史的に言えば、
経済学(エコノミクス)の始まりは、
アダム・スミスの
「王室の財産を増やすことより、国民ひとりひとりの
 手に入るモノが増えることが大切なんだ」
という主張であった。
「政治」と「経済」の区別は、
あまりなかったのである。
 
しかし、その後、正統的な経済学は、
「自由な市場において、人間はどのように振舞うか」
を客観的に分析する傾向を強めた。
経済学者は、(物理学者のような)科学者を目指した、
と言っていいと思う。
 
そういう正統的な経済学に対して、
ピグーは、「望ましい社会」を実現するための
「厚生経済学」を考えたわけだ。
正統的な経済学では、
社会は科学的な分析の対象だから、
「望ましい社会」という発想はない。
物理学者にとって、
「望ましい物体の運動」などないように。
 
ピグーは、政府が介入して、
「公害を発生させている工場から税金を取ればいい」
と考えた。
工場が社会全体(おもに周囲の人)に
与えている損害に相当する金額を、
政府が社会全体に代わって徴収する。
そうすれば、
税金分の金額が製品の価格に上乗せされて、
「市場の失敗」が解消される。
 
自動車の排ガス基準は、
この考え方に沿った解決方法である。
厳しい排ガス基準を課せば、
研究開発などにかかったコストが
自動車の価格に上乗せされて、
「望ましい台数」以上の自動車が
売れることを避けられる。
 
さて、「工場に金を払わせろ」という
ピグーの主張、もっともだと思うでしょう? 
しかし、
「社会全体の利益を最大にする」
ことだけが目的であれば、
「工場(汚染者)に払わせろ」とは言えない。
 
正しい答え(コースの定理)は、
「取引費用がゼロであれば、
 誰に払わせても、社会全体の利益は変わらない」
である。
(先回りして言っておくと、
 「取引費用はゼロではない」から、やっぱり、
 工場に払わせたほうがいい、ということになるんだけど)
 
「取引費用」というのは、
情報を集めたり、ミーティグを開いたり、
交渉のために移動したりするのにかかる費用。
これがゼロだとすれば、
「工場に公害を出さないようにする
 浄化設備をとりつける費用」と
「周囲の住民に与えている損害の合計」の
どちらが大きいか、だけが問題になる。
 
「工場に浄化設備をとりつけるほうが安い」のなら、
政府が介入して工場に金を払わせなくても、
住民はお金を出し合って工場に浄化設備をとりつける。
しかし、実際は、住民同士が話し合ったり、
工場と交渉したりする「取引費用」がかかるから、
工場に払わせるほうが「望ましい」のである。
 
「コースの定理」は
ややこしいことを言っているだけのようだが、
「取引費用」って、
本当はすごく大事なのに、無視されがちだよね。

2001-07-23-MON

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