タナカ |
こないだも、買い物してたら、
黒くてツルッツルしたナスが
山盛に並んでて、
それが魂の扉を開くんだよね。
ギョッとするの。 |
── |
同じものが均等に並んでいるものって、
よーくみると、不気味でこわいです。 |
タナカ |
すっごいなこれ!ってなるでしょ?
いっちいちそんなことしてたら
買い物できないから、
いつもはそういう反応を
シャットアウトしてんのよ。 |
── |
なるほど。 |
タナカ |
おたまを買いにスーパーに行ったときも、
ギョッとなったよ。
売り場につるつるのおたまが
大小グラデーションで吊り下げられていて
視界いちめんおたまなの。
むっちゃきれいのなよ。もう、
誰かー!(助けてー)
って思ったもん。 |
── |
ハハハハ! |
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タナカ |
けど、いちいち「誰かー!」言うてたら、
もう用事ができないの。 |
── |
用事が暮らしの主軸となっていますものね。 |
タナカ |
社会との折り合いがつかなくなるから、
ガチッて鍵かけて「やめ!」にしてる。
「買いたいおたまは、どの大きさで」
っていう気持ちでやらないと。 |
── |
そのモードでいないと、だめですね。 |
タナカ |
そう、記号、記号で、
毎日すごしていってるわけでしょ。
その記号みたいなものの最たるものが
スタイル、いうやつですわ。
魂の扉をとにかく閉じてるんです。
おたまをみてギョッとするかんじ、
虫をみて気持ち悪いというかんじ、
夕焼けをみて
なにふりかまわずキレイというかんじ。
そこでは、こまかいウソがなくなって、
絶対正直者の自分
になるんですよ。
その瞬間が、
魂と立ち向かってるときじゃないでしょうか。 |
── |
そういうときは、
すっぱだかになるかんじがします。
それは、TAROの絵をみたときの反応と
ちょっと似ているかもしれませんね。
TAROの絵も、形式ではないですから。 |
タナカ |
そう、ぜんぜん形式じゃない。
だから、ゾッとしたり
する人がいるんやね。
でね、そんな気分になっているときは、
「誰かを傷つけよう」なんて、
思わないんです。 |
── |
そんなことを考えている
隙はありませんからね。 |
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タナカ |
「正直の扉をひらく」だの
「ギョッとする瞬間」というのは、
美と出会うということなんです。
人はもっと美を思い出したいんです。
美を思い出したり
美に対面した自分というのは、
本心にたちかえってしまうんです。
それをふだん、合理主義の社会のなかで
忘れてしまっているだけなんですよ。
そのどうしようもない澱んだ膜をね、
太郎はベロッって
剥がしてくれる。
軽快に、わかりやすく
強い言葉で。 |
── |
うまく生活をしていくうえでも
美にふれて、正直な感覚を
きちんともてればいいですね。 |
タナカ |
じつはみんな
うまいことやっているんだと思うよ。
旅行行ったり、お花見に行ったりね。
「雪がきれいだわー」言うてるやん? |
── |
そうですね!
ときどきは「ウァー」「ギョッ」と
なっています。 |
タナカ |
でしょ? そうでないと生きていけないもん。
それが極端に少なくなると、
おかしくなって、
視聴率をお金で買う、とかなってくるのかな?
そういうことって、たぶん
魂からもっとも遠いことなんですよ。 |
── |
正直さから、遠いですね。 |
タナカ |
金魚にエサをやったり、
植物に水やってるときの自分は、
最高なんですよ。
もう、まっしろの、超無条件。
ふだんは条件ばっかり。
まったく、植物とは
ビジネストークが
なさすぎるよ。
こういうことが、日常に
もっといっぱいあればいいのにね。
「海や山に行かなくても、
日常に美しいものや無条件になれるものが
いっぱいある。子どもはそういうことを
よく知っているんですよ」
(つづきます!)
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