転機のとき。

第4回 20代の転機。


「我々は、若い時に学び、年を取って理解する。
              (エッシェンバッハ)」

「青年は老人を阿呆だと言うが、
 老人も青年を阿呆だと思う(ジョージ・チャップマン)」



青春に関する言葉は、古くからたくさん残されてきました。
まぁ、若さについての、だいたいの格言や諺が、
「若い時ぁつまづくもんだよ」みたいな話ですけれど……。

きょうは、20代に転機を迎えた人たち、
という観点から、たくさんの「転機」をご紹介しますね。
読みおわった後にお時間がありましたら、
あなたの転機もお知らせいただけると、うれしく思います。







・転機の時、いろいろな話を読むことが出来て
 なんだか落ち着きます。
 共感出来るものが多くて。
 武勇伝もくすぶってる話も、
 それぞれ真剣で、心に届きます。
 私の転機は、24歳にして早速転職をした事です。
 自分の生活、性格や価値観までも、この転職により
 いい方向に変わってきている気がしていて、
 今までに転機は1つ2つあったけれど、
 今回はこのチャンスを掴んでがんと飛躍するぞ、
 と意気込んでいます。
 新卒で入った会社は、
 あらゆることに全く納得出来なく
 (経営方針、仕事の進め方、
  周りの社員の価値観、なにもかも)、
 毎日それはそれはイライラしどおし、
 そのはけ口で、プライベートの大事な人間関係も
 粗末に扱い台無しにしてしまう程でした。

 自分の考えはどうしてこうも
 ことごとく周りと真っ向から対立するのか?
 上司とかなり喧嘩腰の話合いになったことも
 度々で、志を同じくする同僚達と、
 こういうことは改めて頂かないと、
 私達会社辞めます、とまで
 部長に直談判に行ったこともありました。
 23,4のオンナノコ達(でも売り上げ成績No.1の子達)
 がカンカンになって
 オジサン連中に直談判に行ったことはすごい!?
 それほど酷かったのです。

 結局、同じ人間がいくらアタマしぼって考えても、
 出てくるものに大差なし、ということが分かり、
 私は疲れ果てて転職しました。
 過去の苦い経験を生かし、
 適性、経験、求人動向、業界研究をしっかりし、
 狙いを定め転職活動をしました。
 良くも悪くも期待通り、予想通りの職場、業界です。
 今はなかなか幸せな毎日です。
 お給料は下がってしまいましたが、
 お金じゃない、とつくづく思います。
 自分が安心、納得出来る会社で、
 日々刺激をうけて仕事が出来ています。
 そうだよね〜と同意し合える人の居ることの安心さ。
 もちろん合わない人達も居て、ストレスはありますが。
 (むぎ)



・私の「転機のとき」も今かも知れません。
 しかも恋愛も、体も、仕事も。
 今好きな人はもうすぐ結婚します。
 浮気から不倫になるのかなぁ。
 私のことはどうする気なの?って聞きたいのに
 彼は「4月末まで忙しい」ってメールがきただけ。
 もうツライからふってくれって思いつづけてます。
 プログラマーなのですが、
 去年、疲労とストレスと
 遺伝と電磁波でホルモンバランスが崩れ、
 医者にも
 「このままだと妊娠できなくなる」と言われています。
 意識してないし、あまり言われてもいませんが、
 コンピューター関連って、男性の場合、
 女のお子さんしかできなくなるってよく言いますよね。
 元々弱く、体力も低下していたところに
 ちょうど出た、って感じ。
 25才、別に結婚も出産も望んでないけど
 普通じゃないですよね。

 でもみなさんのメールでいろんなこと考えました。
 このままじゃいけない。
 もうちょっと考えてからになるけど
 行動起そうと思います。
 (sai)



・小学校へ入りたてのころ、
 ヘルニア、つまり脱腸という病気にかかり
 大学病院で検査を受けたときに
 心臓の一部に穴があいていると診断されました。
 以来、あちこちからだの具合が悪くなり、
 しょっちゅう扁桃腺を腫らして
 高熱で寝込むような虚弱な子どもとして
 人生をすごしてました。
 中学・高校でも水泳の授業や修学旅行などの
 事前検査で不整脈が見つかり、
 いろいろなイベントに参加できないことも
 しばしばありました。
 当然、運動オンチでもありました。

 しかし、目指していた大学に進学し
 大学で知り合った友人達と島にでかけたことで
 まるで緞帳をはさみで切り落としたように
 人生が変わりました。
 毎年、いろいろな島に友人達と渡り
 素潜りをくり返しました。
 女の子にもてたい一心でボディビルも始めました
 徐々にではなく、ある日突然、
 虚弱ダメ男→野性派 に変わったのです。

 そのうち心臓の穴ことは気にしなくなり、
 大学を出て会社に入りましたが、じきに辞め、
 15年前にひとりで仕事をはじめました。
 以降、仕事にさしさわるような風邪や病気には
 一度もかかったことがありません。

 宗教はあまり信じませんが、海をはじめ
 自然界には、人体に及ぼす説明のつかない力がある、
 と信じています。
 (Cane)



・今日も色々な方の「転機のとき」を
 まぶしく感じながら読んでいました。
 そして、お父さんの思い出を書いていた
 (ゆう)さんとわたしとは、
 いろんな部分で似ていると思いました。

 わたしも高2の時に大学は東京に行こうと決め、
 高3の三者面談の時に父に言ってみたことがありました。
 担任の先生は
 「ちょっとそれは・・わたしにも娘がいますが」
 と、急に父親の顔になって止めようとされたんですが、
 父は「娘が行きたいのなら行かせます!」と
 言ってくれて、ルンルン気分で家に帰りました。
 結局、東京行きは母に猛反対され、
 デザイン科で実技試験のない
 京都の短大を推薦で受けましたが、
 「東京に行きたいっ!」と、すっかり上の空だったので
 作文と面接だけだったのにしっかり落ちてしまいました。

 「やっぱり東京に行きたいっ!」と、
 高校卒業間際まで粘ったんですが強い母には勝てず、
 親を説得できるほどの頭脳も才能もなかったので
 その後ギリギリ願書が間に合った
 地元のデザイン学校(専門学校)に
 通うことになりました。
 (ゆう)さんの
 『勝手に自分で世田谷の不動産屋で物件を契約して』
 って、「そう言う“強行手段”もあったの?!」と
 今日はびっくりしました。
 思い描くことは似ていても、その時に選んだ行動で、
 その後の人生も全然違っていくのでしょうね。
 でもその時は何がベストだとかはわからないんですよね。

 「就職は東京でして良い」という約束があったので
 全課題提出し、高校生の時の、
 つまらない授業を抜け出してタイ焼きを買い、
 ひとりぼーっと空を見上げながら
 ベンチで食べたりしていた頃のわたしとは
 別人の様に変身し、自分なりに頑張って卒業しました。
 結局、母は2年も経てばわたしの気持ちも
 変わると思っていたみたいで
 卒業する時にも東京行きで再び大もめしました。
 「だったら働かなくてもいいよ」と言われて
 わたしも半年ぐらい家事手伝いをして過ごしていました。

 でも若いし元気だし家に居てもつまらないので
 その内に就職しました。
 “じきに働き出す”
 これも母の予想通りだったんだと思いますが、
 そんなこともバブリーで
 引く手あまたな時代だったからこそ
 のんびりと選択していられたのかも知れません。

 就職してすぐに父が倒れたのですが、
 父の事がなかったら、
 今よりも更にダメな人間になっていたと思い
 ゾッとします。
 それに、あの時に価値観が変わって良かったと思います。
 “東京熱”もそれを機にすっかり冷めてしまいましたし、
 お金や夢も大切だけど、家族や愛の方が大切です!
 (全部あるのがベストだけど、それは贅沢かも・・)

 父が倒れた後も
 数年間は国産高級車が何台かありましたが
 今では仕事用のオンボロライトバンが一台残っただけで、
 今までの乗用車と比べると、かなり揺れて車酔いするし、
 花の種の袋が足元に数種類あったり、
 肥料の袋があったり!?
 後部座席からは
 釣り竿が突き出てきたりしていて・・・

 色んな物が次から次に出てくるので
 「ここは一体?」と、
 乗せてもらう度にドキドキしますが、
 それはそれで「ちょっとサバイバル気分!」と
 楽しんでいます。
 父本人も仕事ばかりの人生だったので
 きっと病気が大きな転機になったんですね。

 父の工場もすっかり傾き、人生は山あり谷あり、
 プラスマイナスゼロって本当なのかも?って思います。
 確かに、生きていると良い時ばかりじゃないけれど、
 良くない時にだって
 見つければ別の幸せがあるって事も知りました。

 「どこに居てもわたしはわたし。
  わたしを生きていくしかない」
 と今は思っています。
 これは生き方だけでなく、
 どんな仕事(職場)でも、恋愛でも、
 当てはまるのかも知れません。
 なかなか難しいんですけど・・。

 母が東京行きを反対したのだって今は理解していますし、
 “茶色いお弁当”どころか、高校入学と同時に
 「自分の食べるお弁当ぐらい自分で作りなさい」
 と教えてくれるでもなくいきなり作らされたことも
 当時は反発したけれど、
 母の愛だったんだと思いたいです。
 父の入院中、母がよく折り込みちらしの裏などにですが
 手紙を書いてテーブルの上に置いてくれていました。
 “たまへ
  あと少し。お父さんは絶対なおります。
  三人で力をあわせてがんばりましょう。母”
 など日によって書いてある事は違うんですが、
 病院の付き添いの交代に行く前に、
 父が本当に治るのか先が見えなくてつらい気分の時には
 朝一人で読んで泣いたりしていました。
 普段はふざけたことばかり言う母なので
 余計にグッとくるものがあったんだと思います。

 わたしも笑わせることに力を注ぐ地に
 生まれ育った大阪人のサガか(?)
 すごく悲しくても顔で笑って心で泣いて、
 とついヘラヘラしてしまうので、
 いつも色々な事を考えたり感じているなんて
 両親は知らないんでしょうね。
 一度、思っている事を(ゆう)さんみたいに
 手紙に書いて素直に伝えてみるのも良いかも知れません。
 (でも一緒に暮らしているので、今更恥ずかしいか・・)

 (ゆう)さんが書いておられたように
 『たとえ跳ね飛ばされたり、転んで傷ついても
  愛する人が受け入れてくれる家がある』
 って本当に心強いんですよね。

 親は何があっても絶対に
 自分のことを信じてくれているんだ!と思うと
 裏切る様なことも絶対にできないんです。
 今日は他の読者の方とも『ほぼ日』で繋がっているんだな、
 わたしは決して一人ぼっちじゃないんだな、と思えました。
 わたしの方こそ「ほっこり」させていただきました。
 ありがとうございます。
 メールすごく長くなってしまって、すみません。
 (たま)

2003-02-02-SUN

 

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