山元町では、
地震発生から津波が来るまで
およそ1時間、ありました。
(地震発生が14:46、
大津波襲来が15:50ごろです)
沿岸部に住む人たちは、日ごろから
「津波警報」には慣れていたので、
山田春香さんも
「いちおう避難しよう」という気持ちで
役場に向かって自転車を漕ぎはじめました。
そうしたら、
越えるはずのない常磐線を津波が越えた、という
消防団の叫ぶ声が聞こえました。
誰もが予想していなかったことが起きたのです。
そのとき、山田さんは、
どんなに危険な目に遭ってもいいから
とにかく前へ進もう、と
はっきりと決意しました。
そのときすれちがった人や車が
どうなったのかは、いまはわかりません。
津波を見るのが怖かったから、
山田さんがうしろを振り返ったのは
ただ1度だけ。
あとは前だけを見てペダルを漕ぎました。
「おそらく、振り返って見たら
怖くて動けなくなるだろう」
と感じたのだそうです。
道路では、地震でマンホールがはずれて
あちこちで突き出ていました。
山田さんは、そのマンホールに
ぶつからないように
いろんなものを縫うようにして
力いっぱい走り抜けました。
避難所に着いても、停電のため
充分な情報が得られませんでした。
携帯電話も通じなかったので、
地震の規模も津波の被害も
わからないまま、
一夜をすごしました。
そして、夜があけ、
「津波ってどこまで来たのかな、
帰れるよね」
という軽い気持ちで、役場の裏手の、
町を一望できる高台に行きました。
ここがその、
町を見下ろすことができる高台です。
いま、海岸線が変わってしまったことと
手前にあるべきものが
なくなってしまったせいで、
高台からは海の水面が少しだけ見えます。
「ここから海が見えることが
信じられない。
いまでも海を見るのは怖い」
と山田さんはおっしゃっていました。
震災から一夜明けたその朝、
同じこの場所から、山田さんは
太陽をあびて光っている町を見ました。
光っている理由は、水です。
「農繁期の田んぼみたいになってる」と
最初は思ったそうです。
しかし、よく見ると
田んぼと田んぼの境がない。
あきらかにおかしいものが浮いている。
これはたいへんなことになった。
そこで山田さんは
被害の大きさに気づきました。
朝がやってきた避難所では、
何人かの友だちに会うことができました。
津波にのまれながら
助かった人たちにも
あとになって会うことができました。
「津波がやってきたけど、
逃げた場所がたまたま竹林だったので
竹につかまって命を拾った」
「決壊した堤防の鉄砲水にのまれ、
泥にはまって抜けなくなった足を、
津波の第二波が来る前に
周囲の人たちに必死で抜いてもらった」
津波の中を泳いで
役場にたどりついた人もいましたし、
流れてきた畳につかまって
助かった人もいました。
そして、そのころ
山田さんの妹は仙台の避難所にいました。
お父さんが仙台空港沿いで
働いていたため、
「父は亡くなっただろう」と考え、
おおいそぎで母と姉のいる山元町に
ヒッチハイクをして戻ってきたのだそうです。
妹さんは仙台で、アルバイトの先輩に
「家族がいるから山元に行ってくる」
と告げて、
いろんなものを借りてリュックに詰め、
「山元」と書いた紙を下げて
国道6号線で車に乗りました。
車に乗せてくれたのは、
幼稚園に通う甥が山下地区で行方不明だから
探しに行く、という人でした。
妹さんと山田さんが会ったのは
津波の3日後でした。
妹さんが移動した2日間は、
いろんな人と知り合いながら
お金を借りたり、
道路で寝たりしたそうです。
その途中、亡くなった方の姿を見ることも
少なくありませんでした。
山田さんは、こう言います。
「農家が多いこの町では
自然に翻弄されていることに
みんなもともと慣れていたはずです。
自然にやられたならしかたない、
そういうさだめだと思う人も
たくさんいたことでしょう。
だけど、おそらく地震のみであったら
死者は出ていなかったと思います。
津波さえ来なければ
ほとんどの人は生きていたと思います。
そう思うと津波が憎くてしょうがない」
いつも津波が来ていた地域だから
気が緩んでいたのかもしれない。
でも、気が緩んでいなかったら
生活というものはできないのかもしれない。
「山元は、いちごが名産なんです。
ストロベリーラインという道路があるくらい、
いちご畑がいっぱいありました。
うちの斜め前にも、いちご畑、
あったんですよ。
だけど、『あれ何だったっけ?』
というような感じになってしまいました。
ここでいちごがまた植えられるといいな、と
思います。だけど、塩害で
畑は作れないということなんです。
いつか、たくさんの人たちに
山元町で作ったいちごを食べてもらいたい。
いまはもう、どうやって
復興するかという話になってるし
そうあるべきなんですが、
みんな、心のなかでは
これからどうなるんだろう?
という気持ちがあります。
自分の住む家をいかにしてたてなおせるかが
あまりわからないから
みんな不安がっている。
だけど町の復興はがんばろう、という感じかな?
絶対に復興していくという自信は、
町の人にはあると思います。
ただ、本音を言うと、
誰かに愚痴言って
泣きたいというのもあります。
それは確かです」
(つづきます) |