千体のお気楽な骸骨たち。 田中靖夫さんの手が産み出した天然。 |
第16回 編集者をやめたころ ライターの田中弘子さんの、 美術への考えをつづけてきいています。 前々回はホルツアー、ウォーホールで、美術的。 前回は芥川に、ボウルズと文人系だったですが、 今回はふたたび美術系のひとが出てまいりますよ。 美術系の編集者をやっていたとき、 それを、やめたころについて、うかがいました。 まずは、そもそも、編集者をしていたときは、 おもしろかったのですか、とたずねてみました。 「はい。やりたいことがやれたし。 パリとロンドンで活躍している ファッション写真家を取材して、 2冊の本をつくり、その本が割と売れました ヘルムート・ニュートンやサラ・ムーンというひとたちに 日本人としては私が最初にインタビューしたんですね。 プロの間では評判になりました。1974年のことですから」 そんなにすごく躍動的だったのに、 編集者をするのがおもしろくなくなったのは、 いそがしくなってきたからですか? 「仕事は常に忙しかったけど・・・。 やっぱりやっていることが くりかえしになっていったというか、 なにもかもおもしろくなくなっちゃって。 このままやっていても 自分は後退するばかりだな、と思いまして、 自分をくりかえすことになるなっていうのは もう恐怖で、それがいやだったんですね。 イラストレーションという世界も、 最初は新鮮で、はりきりすぎちゃったんです。 その反動で飽きちゃったのかな。 何か自分がちょっと先に行きすぎていて、 もう、いいかなあ、と・・・。 それと、ずっと私は組織というのがあわない体質で、 自分勝手にやっちゃうほうだから、 そこにずっといたのが不思議なくらいでしたね。 やめたいやめたいとずっと思っていました。 ただ、給料もかなりもらっていて、 編集長でもありましたから居心地のいい部分もあって、 なかなか辞められなかったけど。度胸もなかったし。 とにかく、もういまの状況を脱したいというのと、 また元気になりたい、というか。 辞めて1週間後にはアメリカに着いていました」 弘子さんがおっしゃっていた 『自分をくりかえすことになるのは、もう恐怖で』 は、ほんとに脱したいところだったんだろうなあ。 そう感じながら、次の言葉へすすむのだ。 (つづく) |
2000-03-24-FRI
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