KANA
カナ式ラテン生活。
スペインは江戸時代の長屋みたいさ、きっと。

 
『訳してはならない言葉も、ある』


オラ!

……だいたいこの「オラ!」からして、
うまく日本語に訳せない。

スペインでこの「オラ!」は
たとえばエレベーターに乗り込んだときとか、
バスの運転手やスーパーのレジのひとに対してとか、
近所のひとに合ったとか役所の窓口でだとか
とにかく誰かと目が合うと同時に発せられる言葉。
英語の「ハァイ!」にあたるのだろう。

だいたい「ヤァ!」と訳しているのだが、
実はちょっと違うんじゃないかと思っている。
だってちょっと想像してみるとすぐわかるのだけど、
もし日本でバスに乗るときやコンビニのレジで
「ヤァ!」なんて声を掛けてるひとがいたら、
そいつはたぶんおかしなやつに違いないからだ。

たとえ街で友達とすれ違ったって
昨今の若者は「ヤァ!」とはまず言わないだろう。
よく考えたら「ヤァ!」なんて使いそうなのは
転勤でN.Y.行って帰ってきたばかりのスーツ野郎とか
雀荘で鉢合わせしたあまり親しくなかった同級生とか
なんだかあまり声を掛けられてもうれしくないやつの
ような気がする。

あ、ビートルズはやってきたのだよね。
オカッパ頭にハッピ姿で「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」って。
まぁほら、彼らは外国かぶれしてても仕方ないから。


「ちわー」って訳がだいたいしっくりくる気もする。
でもそうすると
「こんにちは」の100%の訳「ブエナス・タルデス」の
立場っちゅうもんがなくなってしまう。
なんせちょっとていねいな午後の挨拶は
「オラ!ブエナス・タルデス」なのだから。
これが「ちわー、こんにちわー」って訳になるとすると
配達先が留守かどうか確かめるために
帽子を片手に裏口から遠慮がちに声を掛けてみる
三河やさん(酒店)の姿しか思い浮かばない。
こうなると、やっぱりおかしなかんじだ。

「オラ!」ひとつを訳すにも、この有様。

だもんで、当然のように、
他にも訳せなくて困る言葉がたくさん出てくる。



英語を使うようになったときにも思ったのだけど、
「よろしくお願いします」という日本語って、
かなり外国語に訳しにくいのではなかろうか。
試しにテキスト翻訳サイトを使って英訳したものを
さらに日本語に直訳してみると
「ご考慮に感謝します」
ってなことになってしまう。
いやー、もうちっと押しの強い感じで
ネチーっとした表現なんだよなぁ。
サンキューじゃなくて、あくまでプリィーズ、ね。
もちろん、場合によるのだけど。

スペイン語にも、私はまだ訳せないでいる。
日本語での思考が抜けないまま会話していると
ついつい「よろしくね!」をそのまま訳そうとして
……言葉を詰まらせてしまう。

ないものは、訳せないのかもしれないな。


同じく、スペイン語に訳せなくて
いつも詰まってしまう言葉がある。
「いいなー」ってやつ。
たとえば次のような言葉に対して用いられる。

1.「この夏は、地中海でのんびりするんだ」
2.「食器洗い機、このあいだ買ったけど便利だよ」
3.「阪神が優勝したときの神宮におってん」
4.「わらしべ拾ったら、とんとん拍子に長者になったよ」

直訳だと、「私はそれがうらやましい」になる。
それでだいたい良いような気がする。
だけどスペイン語の「うらやむ」という単語は
「ねたむ、そねむ、嫉妬する」という意味も含む。

でも上記1〜4の場面で「いいなー」と言った私には
わらしべ長者にも、阪神の優勝に立ち会ったひとにも、
別にねたんだりそねんだりの気持ちはない。
ましてや
「まぁあの子ったら食器洗い機なんて買っちゃって。
いい気になっていればいいわ、
見てなさい、いつか感電して死んじゃうんだから。
そのときになって地団駄踏んで後悔しても遅いのよ」
なんて気持ちは、まったくない。
それなのに「うらやましい」と直訳してしまうと、
そこまで推量されても仕方ない、のかもしれないのだ。

実際、友人宅を訪れたとき、ただ単に
「あ、エレベーターがあっていいなー」って言いたくて
「あなたのアパートにエレベーターがあることを
私はうらやましく(ねたましく、そねましく?)思う」
と直訳的に告げたところ、
言われたほうはびーっくりしていた。

なんてちいちゃな奴だ、と思われたのかもしれない。


でも、それは本当のことなのかもしれない。
背が低い人は高い人を見て「いいなー」、
高すぎると思っている人は低い人に「いいなー」、
結婚してて「いいなー」、独身で「いいなー」、
ピアノ持ってて「いいなー」、
ピアノなんか持ってなくて「いいなー」、

自分と誰かを比べるってことは、
なんだかすごく自信のない表れのように思われる。
ずいぶんとけちな野郎なのかもしれない、私。

でも人間なんて簡単でアホらしいほど強いもんで、
スペイン語でしゃべれないと思っているうち
スペイン語の会話のときは「いいなー」って気持ちに
あんまりならないようになった。

言葉は、性格まで変えるのではないかしら。


逆にスペイン語でしゃべる機会が増えるにつれ、
ふつうの会話のなかに、
汚いののしり言葉が出るようになってしまった。
ほら英語辞書で<俗>って注釈がついてるやつ。
『スポーツマン・シップにのっとれ!』参照

このままでは、
スペインから観光に訪れた京都で喫茶店に入って
コーヒーの値段のあまりの高さに心底驚き、
そうそうこういう場面ではなんていうんだっけ、と
スペイン語でいつも口にする単語を
日本語に直訳して叫んでしまった
知人の友人みたいなことをやってしまいそうだ。

スペイン人の彼は、
京都のはんなりとした上品な喫茶店で、
大声でこう叫んだのだという。
「マン○!」

……気をつけよーっと。


カナ http://www.kanasol.jp






『カナ式ラテン生活』
湯川カナ著
朝日出版社刊
定価 \700
ISBN:4-255-00126-X



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2002-08-04-SUN

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