カナ式ラテン生活。 スペインは江戸時代の長屋みたいさ、きっと。 |
【ヒロシマのことを知ってくれてありがとう】 8月6日だ。 私は長崎で育ったこともあり、 8月6日というと午前8時15分の 広島への原爆投下を思い出す。 今日は午後2時半からの昼食のあと、 3時からのニュースを見た。 少しでも報道されるかな?と思って。 トップ・ニュースは 石油価格の動向について。 そしてその次が、 広島の原爆記念日のことだった。 最初に、平和記念式典の様子が映った。 スペインのテレビに日本の映像が流れるのは なんであれうれしかったりするので、 このときはツレアイと 「あ、原爆ドーム」 などと言っていた。 鐘が撞かれ、鳩が飛び立ち、 小泉首相と金色の折り鶴の映像が入り、 広島市長の声明の要旨が伝えられた。 そこからが、すごかった。 それはもう、 短いドキュメンタリーだった。 「59年前の今日の午前8時15分、」 とつとつとアナウンサーが語るなか、 原爆が投下されてキノコ雲が もくもくと立ち上り、 その衝撃でか映像が大きく上下に揺れる、 おそらく飛行機の上から映したと思われる 白黒フィルムの映像。 「この一瞬で、○万人の命が奪われたのです」 同じく白黒のフィルムで、 まったくの廃墟となった広島の街が、 そして泣き叫ぶ中年の女性の姿が映し出される。 そこから映像はカラーになり、 被爆者が治療を受ける、 それは本当に正視に耐えないというか これこそ原爆というものの 「正視に耐えなさ」を端的に示すような、 光景が、しばらく続いた。 「俺、こういうの、長崎の原爆資料館で見た」 ツレアイがぼそっと言って、 私もウンと頷いた。 とても恥ずかしい話だけど、 実はそのとき、私は資料館に入らず、 外でツレアイを待ったのだった。 私は小学生のときにはじめて資料館へ入り、 あまりのショックで気分が悪くなり、 お弁当に持ってきていた 大好きなチキンライスの薄焼き卵巻きを 開くこともできずに、 平和公園の芝生の上にうずくまって 汗をいっぱい流しながら吐き気を堪えたのだった。 その印象が強すぎて、 どうしても原爆資料館へ入れなかったのだ。 (ちなみに資料館は96年にリニューアルされた) 今日のニュースで流れた映像では、 小学校の低学年くらいと思われる 坊主頭の目の大きな男の子、 どこにでもいるような可愛い子が、 全身、本当に顔も体もその髪のない頭も、 あらゆる皮膚という皮膚を いろいろ濃さの違う赤や紫や黒に染めて、 ちがう、そういう色に焼けただれた端布を まるで全身に貼りつけたようにして じっと医師の診断を受けていたが、 ふいに視線を、その無表情な目を、 こちらに向けた。 胸が射抜かれたような気持ちになった。 私もツレアイも、無言で見続けた。 そうやって何人かの被爆者が映ったあと、 これまでの犠牲者の総数、 今年何人が新たにリストに加わったか、 などという細かいデータも伝え、 最後に「3日後は長崎原爆の日です」と結んで ニュースは終わった。 むごたらしい映像をテレビで流すことには いろいろな意見があるらしいが、 とにかくスペインでは、全部流す。 先日のパラグアイのスーパーの 大規模火災で焼け出された人々の焼死体も、 中東やイラクや世界各地の戦争やテロや殺人や 遺体や、遺体の損壊行為やなんかも、全部流す。 凄惨な光景に、 何度、息が詰まったか、目を逸らしたか、 そして泣いたかわからない。 正直、「なにも食事時に、」と 思うこともあるのだが、 私の食事時にこういうこともあっているのが 生きている世界なのだよなぁと思い返して、 なんとなく反省したりする。 原爆を言葉で語ること、 抽象的なイメージで語り継ぐこと、 平和を訴えること、 もちろんどれも素晴らしいことだ、 私がそう言うのはきっと的外れなくらい。 でも、リアルな映像もすごい。 59年前のあの少年は、 今日たしかに、私たちの目の前にいた。 少年の肌の輝きも快活な表情も ぜんぶ奪い取られた「生」の状態で ほんの1メートルくらい目の前にいた。 それは、原爆がどういうものかをすごく伝える、 本当に生々しい姿だった。 これを毎年見ているスペイン人も、 原爆のむごさを きっと、リアルに感じているだろう。 そういうこともあってか、 スペインでは本当にほとんどのひとが ヒロシマ・ナガサキを知っている。 これまで何度も書いたことなのだけど、 私が長崎出身だと知ると、 「ご家族は大丈夫だったの?町は復興した?」 私の両肩を抱き、 涙さえ浮かべて訊いてくれる。 こんなに縁遠い国のことをよくぞ、と、 実は面食らうような気持ちも強かったのだが、 最近、なんとなくわかった気がする。 スペイン人にとって、原爆は、リアルなのだ。 いま世の中で起きている いろいろなことと同じように、 原爆も毎年、「報道」されているから。 戦争やテロのことを考えるとき、 マドリードの列車爆破テロの直後に聞いた あるタクシー運転手の言葉をいつも思い出す。 これも再掲になるけれど。 「今回のテロもだけど、 きっとイラクでも同じことだ。 そしてヒロシマ・ナガサキでも。 いつも死ぬことになるのは 毎日をまじめに生きるふつうの労働者なんだよ。 君であり、俺なんだ。 それぞれ愛する家族があり、生活がある。 なぁ、誰ひとり、 殺していいってことがあるかい?」 ヒロシマ・ナガサキの痛みは、 スペインではちゃんと伝わっている。 ○○万人という犠牲者の「数」だけじゃなく、 隣人の死として、分かっていてくれる。 ありがとう、と、そのたびに思う。 ま、スペイン語はHを発音しないので みんな「イロシマ」だと思っているのだけどね。 カナ ※ 愛知万博スペイン館のアンケート実施中。よろしければご協力をお願いしまーす。
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2004-08-10-TUE
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