KANA
カナ式ラテン生活。
スペインは江戸時代の長屋みたいさ、きっと。

【40週・後半】

無痛分娩の割合は、
スペインでは9割、日本ではたった2%。
事前にできるだけのことはしてきたつもりだけど
麻酔を使う分娩に、けっこう不安が残っていた。

まず、右腕に点滴がつながれる。
麻酔による血圧低下などの副作用防止のためらしい。

次、いよいよ麻酔。
つい後遺症やらなんやらの嫌な話が頭をよぎり、
身体がこわばる。
しかし麻酔医のおじちゃんはえらく温厚そうなひとで、
「カニータ(カナちゃん)、」
とひっきりなしに私に呼びかけ、
時には手を擦ってくれたりしながら、
麻酔の手順や使う量などを丁寧に説明してくれる。
それだけですでにプラセボ効果
(擬薬で、薬効がないのに効いてしまう)アリ。
よし、腹を据えて、このおじちゃんに任せよう!
そう思うと、気が楽になった。

まずは横向きになって、背中の真ん中に、
硬膜外麻酔のカテーテルを通すための麻酔注射。
しかし注射の痛みなんて、
陣痛のなかではまったく記憶にない。
それから背中にカテーテルが通されたらしく、
やがておじちゃんが説明した通りに
背筋にまっすぐ、つぅーっと、
麻酔薬が流れ込む冷たい感覚がした。

「ちゃんといきめるように
 陣痛の波はハッキリと知覚できるくらい、
 でも不快な痛みはまったく感じないくらいの
 ギリギリにジャストな分量の麻酔薬を
 微調整しながら加えていくからね。
 痛かったらいままでみたいに我慢せずに
 すぐに言うんだよ。
 いやあ、本当はもっと早く来てくれれば
 こんなしんどい思いをすることなく
 もっと快適なお産ができたのになぁ」

しきりに残念がる麻酔医のおじちゃんに、
「いやいや、あてらは昨夜も来たんやけど
 あんさんとこで帰してんで!」
全力でつっこむツレアイと私。
気がつくと、本当に痛みがなくなっていた。
それを見届けるとおじちゃんは、
「私はいまから別の患者を診てくるけど、
 カニータ、その隙に帰っちゃダメだよ」
と言い残して、部屋を出て行った。
(あとでギックリ腰の部分がやや痛んだので
 麻酔薬の追加を注文)


7時20分、何度目かの内診に来た助産婦が
「じゃ、いきんでみよっか」
まるで気軽に誘いかける。
「いい?息を吐き出さない、声も出さない。
 スウッと息を吸ったあと、ウンコを押し出すように、
 ぐぅーっと力を加え続けるの。
 そう、いいかんじ!
 じゃ、あとは陣痛が来たらひとりでやってね」
そしてツレアイとふたり、病室に残される私。
不安ながらも、とにかくひとりでいきんでみる。

8時過ぎ、ついにモニカ先生到着!
「間に合ってよかった、ダッシュで来たのよー」
いつもの明るい笑顔に、一気に緊張がほぐれる。
これまたスパシーボ、ちがったプラセボ効果だね。
さっそく内診。
「おおよしよし、もうOKね、出産にしよっか!
 赤ちゃんの服は?」
「あっ、まだ車の中!」
「ええっ!?早く取ってきなさい、早く早く」
せかされて、ツレアイが病室を飛び出す。
赤ちゃんの服って、そんなすぐ必要だったの?

その間に、ベッドごと分娩室に運ばれる私。
運搬担当のおじさんは手荒で、
点滴の台を倒して壁に傷をつけ、廊下の花をなぎ倒し、
さらには分娩室の扉に勢いよくベッドをぶつける。
その衝撃で、私、ベッド上で十数cmはズレたぞ。
やがて仰向けに寝かされた私の視界に、
テレビで見たことのある(テレビでしかない)、
アジサイの花のような、いわゆる手術室の照明。
おお、すごく本番っぽいかんじ。
みんな、緑色の手術着だし。
なんか、テンション上がるぜ。

「ハイ、まず一回、いきんでみよう!せーの!」
モニカの声にあわせていきむ、
大きな大きなウン○をじわーっと押し出すつもりで。
私もしんどいが、きっと、子はもっとしんどいだろう。
それこそあっちは文字通りの「必死」の作業中だけど、
こっちは死ぬわけではないからね(たぶん)。
できるだけ、手助けするけん!
限界まで、ぐうーっといきむ。
「最高、いいかんじ!ホラもう出てきてるわよー。
 あらっ、ご主人は?」
えっ、いないの?
慌てふためくスタッフ。
「あらやだ!すぐ呼んでこなくちゃ、名前は?」
「○○○」
「え?いまなんて言った?もう一回」
「あーもう、『日本人』で、すぐわかるわよ!」
「とにかく急いで!これじゃ間に合わないかも!」
ええーっ!!!

そのころ隣の待合室では、
ベビー服を手に汗まみれのツレアイを挟んで
「早く分娩室へ!」「あっ、手術着忘れた!」と
これまた混乱の極みだったらしい。
しかもツレアイ、渡された手術着を前後逆に着るし。
ふたりしておんなじことして、どうする!

やがてツレアイが、分娩室に入ってきた。
「そんなとこ立ってないで、こっちにまわってみなさい」
モニカに促され、ツレアイが足の方へと移動する。
その時点で、もう頭のてっぺんは見えていたらしい。
「よし、最後の一回よ。せーの、いきんで!」
息を吸って、止めて、ぐーっと力を入れる。
「オーケー!」
もう一回、息を吸って……、
「違う違う、いいのよもう、いきまなくて。
もう出てくるわよ、ホラホラホラ……。
出たっ!オーラーァ!
こんにちはニーニャちゃん、ようこそ!」


フギャアアア、
テレビでよく聞く(テレビでしか聞いたことなかった)
例の生まれたての赤ちゃんの泣き声がして、
それから誰かの手が、私の胸に温かいものをのせた。
まだ目も開かない小さい生き物が、
しわしわの身体に血をつけたまま、
ふやふやの全身をぷるぷる震わせて、
目の前に横たわっている。
小さな小さな頭で、
口を精いっぱい大きく開けて、
フギャアアア、フギャアアアーン!と泣いている。

ニーニャだ!
ああ、ニーニャなんだ!!

ついに会えたんだね、
そういうつもりでツレアイを見たら、もう泣いていた。
泣きながら、私の手をぎゅうっと握って
「ありがとう、ほんまありがとね」と、繰り返す。
ぼうっとした頭をめぐらして
再び胸の上で震えるニーニャを見た瞬間、
私も、急に涙が噴き出してきた。

2006年12月某日午後8時20分。
マドリードの病院の小さな分娩室で、
気の優しくて明るい病院のスタッフに囲まれるなか、
生まれたばかりの「家族」3人は
バカみたいにひたすらワンワン泣いていた。
そしてそれは、とても幸せな時間だった、でした。


というわけで、
陣痛と知らずに痛みをこらえること約2日。
病院に着いてからは5時間強、
分娩室では実に10分足らず、いきむこと2回、
立ち会ったツレアイが後に
「テレビで見たキリンの出産を思い出した」
と打ち明けたほどの超安産で、
ニーニャが誕生しました。
体重:(いまどき)3,340g。
備考:蒙古斑アリ。

ちなみに無痛分娩、本当に痛くなくて、
ギックリ腰なども気にせず思い切りいきめて、
かなりきもちよかったです。
(会陰切開も、知らないうちに終わってたし)

モニカをはじめ病院のスタッフは
「理想的な出産。
 日本人は我慢強くて素晴らしいわね!」
と、イメージ先行のサムライ魂を誉めてくれ、
そして私は例によって調子に乗って
「とても幸せな出産でした、
 モニカをはじめみなさんのおかげです。
 本当にありがとう!
 明日また、出産したいくらい!」
などと言ったりしたのでした。

そしてそして
応援のメールをくださったみなさん、
ありがとうございました!
ニーニャも私も、動物的に元気です。



※内田樹研究室内
 「今夜も夜霧がエスパーニャ」もよろしく。




『カナ式ラテン生活』
湯川カナ著
朝日出版社刊
定価 \700
ISBN:4-255-00126-X



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2007-01-11-THU

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