vol.174
- offside 2
●女の子もサッカーの試合が見たい!
──『オフサイド・ガールズ』その2
シャンテ・シネほか全国ロードショー
□“オフサイド”するのは、生きてる証。
なぜイランでは、
女性はサッカー観戦ができないのか。
1979年のイスラム革命(イラン革命)の後、
イランは宗教的な規則が厳しくなりました。
そんな中でもサッカー人気はもの凄く、
国をあげて盛り上がるワールドカップ予選試合は
10万もの人がスタジアムで狂喜乱舞する。
エキサイトし過ぎたサポーターたちが
下品な言葉を言うことも習慣になる。
そんななかに女性を入れるわけにはいかない。
プレス資料を読むと、これが理由のようです。
ジャファル・パナヒ監督によると、
イランには国民を守るための規則と
体制を守るための規則があるのだと。
“確信犯的”に果敢にチャレンジをしている
監督に、詳しく伺ってみましょう。
─── イランでは、どうも、
「女性は弱いから守るべき」という
大切な存在として規制がある、
ということが強いような‥‥。
監督はイランの中で女性について
どのように感じていらっしゃるのでしょうか。
パナヒ 体制が作っている法律と、
国民が持っている文化習慣的な考えとは
全然ちがうんです。
文化習慣とは、いまの体制よりも、
ずっと昔からあるものなのです。
その中では女性はずっと守られています。
劣るからではなく、
女性が大切でデリケートな存在だから、
という理由で守られているのです。
ところが、体制が考えている法律というのは、
どうしても「劣るから」というふうに
なってしまうのです。
でも私たちの生活は文化に基づいているのです。
─── 『オフサイド』(原題)というタイトルですが、
サッカーのオフサイドは、私には
いまだによくわかってないルールですけど(笑)、
相手のテリトリーに入るのが早過ぎて
「ピーッ」と笛を吹かれる、
‥‥そんなイメージのタイトルですか?
パナヒ 2つ意味があって選んだタイトルです。
1つはサッカーについてのタイトルを
考えなければいけないなと思って。
”オフサイド”は「守り」より早過ぎては
いけないというルールです。
彼女らも“オフサイド”してしまった、
ルールを破って向こうに入ってるという
サッカーのルールと同じ意味の行動なので
「オフサイド」にしたんです。
─── 知っていながら、
イケナイけど入ってしまう。
パナヒ 彼女たちも向こうに入ると
オフサイドになるのは知ってるけれど、
掴まってしまうのは知ってたけど、
そこに入って「女性もいるよ」と
示したんです。
─── 彼女たちは掴まってチームになりましたね。
パナヒ "白いスカーフ”という手段があって、
女性の権利のために運動している
人たちがいます。
彼女らは活発に活動していますが、
この試合の次の試合の
「コスタリカ対イラン」だったかで、
白い大きな旗を作って、そこに、
「私たちはオフサイドになりたくない」
と書いて持っていたんだそうです。
─── 規則の前へ(先へ)出ないと
規則は変えられないから、行くんですよね。
監督の映画作りの姿勢も、そういう意味では
“オフサイド”ですかね(笑)。
パナヒ 法律にも規則にも2つ種類があって
国民を守るため、
権利を与えるための法律もあれば、
一方、制度を守るための法律や、
規則もあるんです。
後者に対しては国民はどうしても
“オフサイド”にやりたいんです。
せめて規則を破っても、
GOにしたいんです(笑)。
─── なるほど。もちろんですね。
パナヒ 普通に言うと、たとえば、
赤信号で止まらないといけない、
というのは、誰もが理解できるんです。
それは自分のためであり、他人のためでもある。
それはわかってるから守ります。
ただし、法律が人間と矛盾しているときが
あるんですね。それは法律が変わるべきだ
というふうに思います。
だから法律が、
国民の反対の立場になっている場合は、
国民が変わるのではなくて、
法律を変えるべきなのです。
それは国民を守るためなのです。
革命が起きて30年近くになりますが、
いくつかの法律には言うまでもなく
みんなが疑問を持っているし、
なかなか受け入れられない法律があります。
それらはすべての国民のための法律ではないです。
法律を変えればいいのですが、
国民を変えようとしているのです。
─── そういう法律の下で、
実際に国民はいま生きているのですが、
この映画を見ていると、それを変えるのは、
まさに国民で、少しずつやってみながら
壁を押している感じがしました。
監督の映画作りも、
トライすることで様子をうかがって、
また少し戻ってトライする。
そんなやり方なのでしょうか。
パナヒ 少しずつかもしれないのですが、
みんななんらかの行動をとっています。
あまり目立たないかもしれませんが、
少しずつ少しずつ窓を大きくしようとして
たまにちょっと戻ったり止まったりしますが、
そこで人間は生きてますから、
壁を押すんですよね。
たとえばマラソンもそんな感じですが、
最後に走っている人って、
負けているのは知っていますよね。
でも走って走って、
ゴールまで行こうとしてる。
転んでも立ち上がる。
また転んで立ち上がる。
そして最後まで行く。
負けているのをわかっているのに行く、
ということは「生きてるよ」という旗を
振っているんです。
─── こんなに現代イラン社会を等身大に
感じさせてくれる映画は初めてです。
パナヒ 『オフサイド‥‥』のなかに出てくる
キャラクターたちは、
自分の子供時代から見てきた現実の
人たちから取っています。
接触して話をしたりした人たちを
スクリプトの中に入れているわけですから、
昔からイランはこんなに生き生きしてる
ということです。
─── 「イランに生まれたのが運のつき」
(と思いたくない)
というセリフがありますね。
なぜ日本の女の子は試合を観られて、
イランではダメなのか、と‥‥。
パナヒ どこに生まれても、どこに住んでも
みんな人間なのです。
人間は平等に権利を求めるものです。
それは人間の権利ですよね。
どこに生まれたから与えないというのは
人間的ではないです。
そのセリフはイランじゃなくて
日本にも、アメリカにも、
あてはまるのではないでしょうか。
いまのイランの体制のやり方とか言い方は、
宗教がメインになっています。
「宗教的にはこうです」とか言ってしまうと、
人間と人間の間の差を深くしてしまうのです。
─── いつも「人間」という視点で
考えるということですか。
パナヒ 地球上に住んでいる人はどこに行っても
人間です。
すべていままでの歴史のなかでも
必死にバリアや国境を壊すのは、
そういうことです。
差別は存在していましたが、
それをなくすのが知識人のやりたいこと
だと思います。
男女の格差、人種の格差も同様なのです。
おわり。(通訳はショーレ・ゴルパリアンさん)
公の場所ではチャドルなどの布か、
スカーフで、肌の露出をできるだけ
少なくしなければならないという、
女性の厳しい服装規制もあるイスラム社会。
宗教と政治が複雑に絡み合うので、
なかなか理解に窮することが多いけど、
映画を観るとけっこういろいろ抜け道もあり、
ユルい雰囲気も微笑ましいのでほっとします。
(それゆえ、監督の立場も大変なのですが)
前回も書きましたが、
イランの人たちの顔や本音がよく見えてくると
「お〜、私たちと一緒じゃないか」
みたいな親しみが湧いてきますね。
この元気で“オフサイド”な女の子たちとの
出逢いを、ずっと大切にしたいです。
パナヒ監督の“情報開示”に感謝して、
これからも期待して注目していきましょう。
さてイランの次は、
運命なるかな、アメリカ映画、
『ミリキタニの猫』です。
ニューヨークのリンダ・ハッテンドーフ監督に
ホームレスの老アーティスト、
ジミー・ミリキタニとの出逢いについて
お話を伺います。
好奇心旺盛なステキな監督でした。
お楽しみに。
★『オフサイド・ガールズ』
Special thanks to director Jafar Panahi
and Espace Sarou. All rights reserved.
Written by(福嶋真砂代)
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