OL
ご近所のOLさんは、
先端に腰掛けていた。

vol.195
- Sunanokage 3


映画を撮る人‥‥
──『砂の影』その3



©2008タキ・コーポレーション/エキスプレス
ユーロスペースにて絶賛上映中!


□映画のしくみ、映画の原理

シネマトグラファー
たむらまさきさんの第3回です。
「映画ってなんですか」という、
究極の疑問の核心へと接近中です。
さて、なにが待っているのか‥‥。

じつはいま公開中の『砂の影』を観ると、
「あ、そうか」と思う瞬間が何度かあります。
拍子抜けするくらい、そんなことか‥‥、と。
シンプルなだけに、気づかない。
でも意外なほどに奥は深く、
一筋の光を追ってついつい、その森の奥へと
誘われることになるのでしょう。

たむらさんのお話にいく前に、
たむらさんの撮影論資料のなかにある、
去年亡くなったドキュメンタリー作家、
佐藤真さんの言葉を、いただきます。

「映画は、1秒間に24枚の静止画像を
 スクリーン上に映写することによって生まれる。
 動いて見えるのは、目の錯覚が創り出す
 イリュージョンである('phi effect'ー注1)。
 より厳密にいうと、静止画像と静止画像のあいだには、
 何も映らない真っ黒な画面が必ずはさみ込まれている。
 〜中略〜
 ともあれ映画は、静止画像のくり返しが脳裡に
 生み出す幻覚のひとつなのだ。
 映画の誕生に先立って、静止画像、
 つまり写真が発明された。
 その写真をくり返しスクリーンに投影することで、
 映画が100年前に生まれた。
 つまり写真が発達して映画が生まれたのである。
 だが、はたして映画は
 写真より優れた映像表現なのだろうか」
 (「日常という名の鏡」(佐藤真)から)


それでは、
たむらさんの言葉で語られる「映画とは‥‥。」
一緒に聞いてみましょう。

□フィルムの“黒い部分”で何かが起こる‥‥

─── 写真と映画の違い‥‥。
    もしかしたら、
    写真をやっている人で、
    映画の画面の構図というものに
    興味を持つ人もいるかもしれないですね。
    「このアングルはいいな」とか、
    「この構図は悪い」とか‥‥。


たむら 僕にとって、構図ってね‥‥、
    もう「撮りたいように撮ればいいじゃないか」
    っていう‥‥、
    答えにならないような答えしか出ませんね。
    写真は止まってますから、
    固定して考えるかもしれません。
    でも、映画は動いているし、
    じっとそこにフィックスでいるときも、
    一見動いていないようですけど、
    でも動いているんですね。
    当然、そこには時間も伴うわけです。

    その中での“構図”ですからね。
    近寄ったり離れたりとか、そういうことは
    あるんですけど、あるいは、
    低い位置からとか、高い位置からとか、
    いろいろありますけど、
    それは、そうしなきゃいけない
    ということは、何もない。


─── たむらさんは、どこらへんから、
    今のような撮り方に行き着いたというか、
    そうなったのでしょう?


たむら うーん、わかんないですね。
    とくに美術大学で勉強したこともないし、
    何なんでしょうね‥‥。


─── 何かで強烈に変わったわけでもなく?

たむら そうですね。

─── 積み重ねているうちに、
    こういう感じというのを掴まれたと、
    本の中では「勘」っておっしゃてましたね。
    でも1作ずつ全部違う作品ですし、
    前と次の作品の撮り方は、やはり、
    変わるのでしょうか。


たむら 作品が違っても、
    そんなに変わってないと思いますけど。
    当然、内容が違うわけですが、
    撮り方は大して違わない。
    僕はそんなにいろんなことが
    できるわけではないですから。


─── 今回は(『砂の影』)特に、
    8mm撮影だったということですが、
    これは、たむらさんにとっては新しい、
    初めての8mm撮影だったとか。


たむら うん。初めてでしたね。

─── でもやはり、
    撮る気持ちとかは変わらない‥‥?


たむら 変わらないですね。映画ですから。
    フィルムが小さいというか、幅が狭いとか、
    当然、機械も小さいんですけど、
    そういう違いだけで、
    映画の原理は同じですからね。
    24コマで撮ってますから。
    小さくなっただけで、理屈とか原理は
    何も変わっていないんです。
    この撮影に入ったときに、
    「たむらが、8mmやるって!?」って
    よく言われたんです。


─── それは、周りの方々にとっては
    すごく意外なことなんですね。


たむら うん、そうだと思うんですね。
    だからきっと8mmというものを、
    「全然違うもの」と考えてるんじゃないですか。
    僕もやってみてわかった。
    「おんなじじゃないか」って(笑)。


─── 映るものは‥‥。

たむら うん。おんなじ。
    だから、そのように撮ったんですよ。
    何が違うか‥‥。
    違うといえば、DV(デジタルビデオ)の方が
    よっぽど、原理からしてまったく違うからね。
    たしかに動く映像であるという、
    共通するものはありますけど。
    その見え方、捉え方の原理は
    ぜんぜん別ですからね。
    だから、あれは映画じゃないですね。
    悪いとは言わないですけど、違うことは違う。


─── たむらさんのDV作品を、
    (『海流から遠く離れて』(青山真治監督))
    この間観ましたが、
    たとえDVカメラを構えていても、
    もちろんたむらさんが撮っているわけですから、
    たむらさんの画になっていくし、
    結果としてデジタルで現れるけど、
    たむらさんの映像には変わりないわけですよね。
    どこが違うのでしょう。


たむら そうですね。映像に関しては、
    同じ感じ方、同じ捉え方をしますからね。
    ただ、電気的に撮るか、化学的に撮るか
    の違いですね。


─── いま技術もさまざまに発達していて、
    映画の定義というのが広くなってきて、
    “映画”と言ってしまえば
    “映画”になってしまう、
    デジタルで撮ろうが、フィルムで撮ろうが‥‥。


たむら そうですね。
    動く映像であるということでは同じです。
    ちゃんと音が出てくるところも同じです。
    でも、原理が全然違うんですね。
    そのことをみんな曖昧になっちゃってるんです。
    これは何人かの人がちゃんと
    言ってることですけど、
    1秒間に24枚、撮影では撮るわけです。
    フィルムのコマを送るので、
    “黒い部分”が必ずあるわけです。
    ただ、上映するとき、
    24回だとバラつきが出るので、
    上映される映写機が、
    1コマをもう1回シャッターを切ってるんです。
    つまり、映画館では、
    同じコマを2回観ているんです。
    ですから、48コマということになるんです。
    そういう理屈で映写されるんですね。

    ようするに、48でも24でも、
    画と画の間に1回切れるんですね、黒くなる。
    で、またちょっと変化した画が出る。
    そのくり返しです。

    その“黒い部分”と、映った画の残像、というか、
    それは目の残像もあるし、それから、
    心理的残像もあるし‥‥。
    そこに何かあるんですね。
    目の錯覚もあるんです。
    それが全部、相まって動く、
    動いているように見えるわけです。
    映画は、そうなんです。


─── 残像と錯覚か、なんかわかります。

たむら 「心理的残像」という言葉があるんですけど、
    そこなんですね。
    そこで人は何かを‥‥、
    それぞれの人が‥‥、何かわかりませんけど、
    何かが起こるんですよね。


─── つまり、その“黒い部分”が無ければ‥‥、

たむら そう。無いのがテレビですね。
    そこには心理的残像も何も無いわけです。
    テレビでは、撮った通りのものが、
    スキマも何も無く動いている。
    そこに大きな違いがあるんです。


─── ということは、物理的に明らかな違いですよね。
    心理的なものが発生する原理とは。


たむら たぶん‥‥。
    しかも仕掛けが仕掛けでしょう。
    TVプロジェクターも今はありますけど、
    TVモニターの場合は、
    そこから光が出てくるんですね。
    “発写”と私はいうんですけど‥‥。
    映画はスクリーンに反射です。儚い影です。


─── そうですね、
    TVでは、光を見ているわけですよね。


たむら TVは“見せられてる”‥‥、
    僕はそう思うんです。
    もう受動するしかないんですよね。
    映画の場合は、能動的に映像に参加している。
    映画を映画館で観るということは、
    影を観に行くということは、
    やはり全然違う行動なんです。


─── 映画館へ足を運ぶ、ということだけでも
    十分能動的なことだけど、
    そうか、視覚機能も能動的な動きをしてる!


たむら たぶん、左脳が何かをしてるんじゃないですか?
    あ、右脳か‥‥。


─── まあ、両方活発に働くんでしょうけど。

たむら 左脳でストーリーを追いかけてる人も
    いるでしょうけど。


─── 日本映画だと、想像する余地も
    比較的あるんですけど、
    たとえば洋画で必死に
    字幕を読まなきゃいけない時って‥‥。


たむら あれ、ツライですよね、ほんとに。

─── 左脳がフルに働いてる感じで、
    右脳が動く余地無し! っていう状態になって、
    情報処理に忙しいですよね。


たむら たしかに、そうですね。
    あぁ、字幕翻訳者の太田直子さんの本で、
    「字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ」
    (光文社新書)を読んだんですけど、
    これはおもしろかったですよ。


    つづく。

で、太田さんの本を私も読みました。
字幕翻訳者の知られざる苦労がよくわかるのと、
字幕のプロ、まさに言葉のプロの方が、
日常感じる“おかしな日本語”への嘆きに、
「わかる〜!」と何度もヒザを打ちました。
たとえば、社名に「さん」を付けることの
奇妙さとか(例:「ほぼ日」さん)、
「〜させていただく」人が多すぎるってことも、
私もものすごく気になってることで、
「作らさせていただく」「休まさせていただく」
とやたらヘリクダルあまりに、ついつい、
使い過ぎしてしまう、敬語、丁寧語の難しさよ‥‥。
使えばいいってもんじゃないんですよね。
とにかく「仕事柄、言葉の字数が増えては困る」
という字幕屋視点からの切実な訴え。
おもしろいのと同時にとても勉強になります。

おっと、脱線しましたが、
フィルムで撮る映画、スクリーンに投影される映画、
そこにある物理的なカラクリによって、
観る人はなにか不思議な作用を起こしている。
1秒間、24コマの“あいだ”に潜む“黒い部分”こそ、
映画たらしめる「原理」‥‥なのですね。

映画はなるべく映画館で観よう、
つくづく、これに尽きる気がします。

次回は、たむらさん最終回です。
『砂の影』は、
8mm撮影ならではの特徴を存分に活かし、
録音にも工夫がたくさんあったようです。
そのことなども伺います。

お楽しみに。

『砂の影』
「日常という名の鏡―ドキュメンタリー映画の界隈 」
 (佐藤 真著)
「字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ」
 (太田直子著)

(注1:'phi effect'の説明、英語ですがおもしろいです!)
http://thebrain.mcgill.ca/flash/i/i_02/i_02_p/i_02_p_vis/i_02_p_vis.html
http://thebrain.mcgill.ca/flash/a/a_02/a_02_s/a_02_s_vis/a_02_s_vis.html


Special thanks to cinematographer Masaki Tamura
and Satoko Shikata(Slow Learner).
All rights reserved.
Written and photo by(福嶋真砂代)

ご近所のOL・まーしゃさんへの激励や感想などは、
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2008-02-27-WED
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