vol.200
- More Than 1000 Words -2
●いつかみんなが笑えるように…。
──『1000の言葉よりも』その2
©Ziv Koren「1000の言葉よりも」
東京写真美術館ほか、全国順次ロードショー中
□「当然」が消えてしまう恐さ。
イスラエルのフォトジャーナリスト、
ジブ・コーレンさんの後編です。
パレスチナの惨状を見るまでもなく、
本当は気づくべきなのでしょうが、
シンプルに、いまの暮らしのなかで、
当然のように享受しているさまざまことが、
じつはなんという幸運で、幸せなことだろうと、
いまさら噛みしめるこのごろです。
もし、これらが「無い」となるとどうなるか。
たとえば、想像すると、
いつも通っていた道路が突然封鎖されて、
ものすごく迂回するか、街へは行けなくなる、
昨日まで買っていた野菜や肉が買えなくなる、
蛇口をひねれば出ていた水が出なくなる、
着の身着のまま、家からほうり出される、
理不尽に国を出ていけと言われる、
家族が突然いなくなる、
突然、街ごとなくなってしまう‥‥。
そんなふうに、数えきれない「当然」が消える、
ということなのでしょう。
なんちゅうことだ。
簡単に「戦争だからね」とは言いきれない。
腑に落ちません。
似ているとすれば、かつての南アフリカの
「アパルトヘイト」を想起しますが‥‥。
そんななかで、イスラエルでは、
自爆テロの被害が激化しているという
現実があるのも事実。
そんな双方の状況も感じながら、
ジブ・コーレンさんに、
紛争現場で写真を撮ることについてを、
さらにうかがいました。
□心に深い傷を負っても、行く。
── シャロン首相の表情もリラックスしてますが、
兵士たちの一瞬のやさしい表情を捉えたり、
ジブさんの写真に流れる温かさが好きです。
ジブ 写真を撮るときにとくに「リラックスして」
とか言ったことは無いのですが、
世界のどこに行っても、誰でも、
写真を撮られるときは、
自動的に一瞬緊張して固まるものなんですね。
ちょっとよく写るように
「こちらのサイドのほうがいいかしら」とか、
やることもあって、リラックスした表情を撮るのには
すこし時間がかかるものなんです。
だから、僕が心がけていることのひとつは、
礼儀正しく、最初はすこし距離を置きつつ、
被写体が感じてる不快感を減らしていきます。
相手がイヤなときは撮らないようにします。
注意しているのは、政治家が食事をしているときは、
撮りません。そういう写真を使うことはありません。
つねに敬意をもって接するようにしています。
── そんな繊細なアプローチをなさるジブさんは、
片や、バスの自爆テロの悲惨な現場のような、
目を覆いたくなるような辛い写真も撮られてます。
映画のなかでジブさんは
「心で感じたことを伝えたい」
とおっしゃっていますが、こういう過酷な現場では、
「感受性を封印」しないと写真を撮れないと。
ですが、この2つを同時に行なうということは、
ものすごく困難なことだろうと想像します。
ジブ 人は、感受性をシャットダウンするのは、
カメラの後ろなら
簡単だろうと思うかもしれませんが、
答えは「ノー」です。
これまで50以上の大きなテロ事件の現場で
写真を撮りましたが、そのうちの8件か9件は、
僕の家の近くで起きたものでした。
テロの現場についたら感受性を働かせます。
ビジョン、音、匂い、人々の叫び声、
すべてが日常とはかけ離れた状況になっています。
ああいう惨劇のなかで写真を撮るということで、
心に深い傷を受けました。
そしてそれは一生残ると思います。
忘れることはあるかもしれませんが。
── 決して癒えない傷なのですね。
ジブ 少しは癒えるかもしれないけど、ずっと痛みます。
バスの爆破テロは、
僕が撮った最初の大きなテロ事件でした。
現場に到着するまで、なにが起こっているか、
まったくわからなくて、
それを見たときは、本当に本当にショックでした。
それに比べて
他の事件がずいぶん軽く感じてしまうのは、
あのバステロを経験したことで、
自分に心の準備ができたからだと思います。
でも最初に見たものは、ほんとにショックでした。
写真展で撮影の説明をするジブ・コーレンさん©marsha
── ジブさんがそういうトラウマを抱えながら、
やはり「強い」と思うのですが。
ふつうの人が1回そういうショックを受けると、
もう行きたくないと思うものですが、
現場にまた行こうと思わせるものは何ですか。
ジブ そうだよね‥‥。
でも僕はいままで一度も「行こうか、行くまいか」と
躊躇したことはなかったです。
義務(obligation)だからだと思います。
行かなくてはいけない、これが僕の仕事だから。
僕はイスラエルで、フォトジャーナリストに
なることを選んだのです。
世界に向けて伝えるべきことがあるんです。
── いつからそう思うようになったのでしょう。
フォトジャーナリストになろうと思ったきっかけは?
ジブ 僕はアートハイスクールで勉強して、
そのころに趣味で写真を撮りはじめました。
アマチュア写真家だったんですね。
で、イスラエル軍が、ミッションフォトグラファーの
募集をしていることを知って応募したんです。
イスラエルでは国民に兵役の義務があります。
僕はそこで戦士としてではなくて、
写真家として行くことを選びました。
兵役が終る前、湾岸戦争のイスラエル軍に同行して、
イラクのスカッドミサイルが降ってくるなかで、
写真を撮りました。
そのとき「これが僕が人生でやりたいことだ」と、
プロのフォトジャーナリストになろうと決めました。
── イスラエルでは女性も兵役があるんですね。
モデルで女優の美しい奥様も?
ジブ 行きましたよ。
男性は3年、女性は2年間の兵役があります。
イスラエル社会では、
小中学校と高校で勉強してから、兵役に就いて、
その後、大学へ進むかどうかを決めます。
だいたい兵役を終えた若者は、世界を旅行します。
1年の休暇をとって、東アジアや南米を旅行して、
異文化経験をするんです。
帰ってから大学に入るので、社会人になるのは
遅いスタートかもしれません。
22歳くらいで兵役が終りますから。
── でも社会に出るまでに経験は積んでいますね。
ジブ そのとおりで、早くに大人になると思います。
ときどきアメリカ映画とかを見ると、
ティーンエイジャーで高校から大学へ進むけど、
それはイスラエル人が兵役に就く年なので、
アメリカ人は比較的子供っぽく見えます。
イスラエルの大学生は、
すでに紛争を経験していますし。
── すごいことですよね。
では兵役に就くまでには、
パレスチナ・イスラエル紛争については、
歴史も含めて教育を受けてるわけですか。
ジブ とは言っても、私が兵役についたころは、
紛争が始まったばかりでした。
── と言うと?
ジブ もちろん19世紀の終わりごろから始まった
紛争の歴史は学びましたが、その後、
和平合意(1993年オスロ合意)があって、
平和がすぐそこまで来ていた。
しかし残念なことに、また、
争いはエスカレートしました。
こんなに激しさを増す紛争というのは、
学んでも追いつかないことがあります。
たとえば、子供が石を投げ合ったように
スタートしたものが、
これほどまでに大きくなってしまうとは、
誰が予測したでしょう。
まさに暴力の連鎖が起こっています。
── 今回、この映画をきっかけに、
私もようやくちゃんと「イスラエル・パレスチナ」と
向き合うことができました。いまは毎日、
どうやったら平和になるのだろうと考えます。
ジブさんは、フォトジャーナリストとして
世論を作っていくことが重要だと
おっしゃっていましたね。
ジブ 僕は写真や雑誌が、
僕の仕事の終点だとは思っていないんです。
できるかぎり広げていきたいのです。
ウェブサイトや写真展、出版とか。
映画もそのひとつです。
今回ソロ(・アビタル監督)の
オファーを受けたのは、映画を観た人が、
より関心を持って、理解しようとしてくれると
思ったからです。
イスラエルは、PRに大きな問題があって、
ほとんどの場合、子供が戦車に石を投げている
という紛争のイメージがあると思います。
実際、イスラエルはパレスチナの10倍も強い。
メディアは大方、パレスチナ側によいイメージを
持っていると思います。
でも僕は、本当のことを知るためには、
バランスをとるべきだと思うんです。
でも残念なことに、
現実にはバランスはとれていません。
── 撮影のお話をうかがいたいのですが、
アビタル監督が「撮影中、ジブに守られてました」
と、あるインタビューで話していました。
それは本当ですか?
ジブ (笑)。
ソロはすごい映画監督で、才能ある人ですが、
まったく戦争については未経験でした。
だから子供に教えるように、
「こうやってああやって。あれはやっちゃいけない」
というふうに、手とり足とり教えました。
初めての銃撃戦に遭遇したとき、
彼はカメラを思わず落としてしまいました。
とてもショックを受けたんですね。
そういう現場では、自分が何をやっているか、
見きわめなければいけないのです。
それが経験となります。
催涙弾を受けたときも、ソロのお尻を蹴って、
逃げるように教えて、2枚用意してあった
バンダナの1枚を彼に渡して、
口を塞ぐように指示したり、
まったくの戦争素人を扱うように、
教えていました。
── でも本当に危険な地域はジブさんひとりで
撮影されてたと‥‥。
ジブ イスラエル軍に同行するときは、
ソロは許可されていなかったので、
僕がひとりで撮影しました。
「友だちもいるんで」とか、
とても言い出せなかったし(笑)。
カメラを抱えて、ポーチにレコーダを入れて、
撮影したものを、帰ってからソロに渡して、
彼が編集しました。
ほかにも僕の写真を使って、
すばらしいクリップ映像を作ってもらいました。
ウェブで見られますから見てください。
ソロはほんとにエンタテインメントの
マスターだと思います。
── 見ます! ありがとうございました。
ジブ こちらこそ、ありがとう!
おわり。
イスラエルにとっては建国の年(1948)、
パレスチナにとって「大惨事」を意味する
“NAKBA”(ナクバ)から60年がたちました。
長い間あきらかにされてこなかった、
パレスチナの受難の規模や事実が、
近年、歴史学者などによって次々に調査が進み、
あきらかになってきています。
それを知れば知るほど、
「なぜ」という思いで胸が張り裂けそうになります。
一方では、建国当初から占領反対の活動をしていた
イスラエル人グループがいることも、
『パレスチナ1948 NAKBA』で知りました。
いま世代交代も起こり、
ジブ・コーレンさんのように
中立の立場に立って、
事態を世界に知らせようとする、
イスラエル人も増えています。
新しい時代に入ったなという、
一筋の光が見えてきたようにも思えます。
そう信じたいと思います。
いつかみんなが笑える世界になることを、
信じたい。
偏った報道や、無益な感情論に流されることなく、
真実を知ることがどれだけ難しく、
どれだけ必要なことか‥‥。
『1000の言葉よりも』は、
それを知る、とてもいい機会だと思います。
ひとりでも多く、観てください!
★『1000の言葉よりも』
★Ziv Koren
★BankART1929(写真展6/10-21)
以下、ご参考に。
★パレスチナ情報センター
★もし東京がガザだったら
さて突然ですが、200号というキリ番を迎え、
今回が「ほぼ日」でのラストインタビューになります。
次回はこのコラム、いよいよ最終回(ほんとに)。
まーしゃの「卒業」を記念して、
近況とか、いまの夢、みたいなことなど、
語ってみようかなと思います。
お楽しみに。
Special thanks to Ziv Koren
and Mitsue Kanda (UPLINK). All rights reserved.
Interview, writing, translation and photos
by(福嶋真砂代)
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