坊さん。 57番札所24歳住職7転8起の日々。 |
第48回 仏師かく語りき ほぼにちは。 ミッセイです。 今日は本尊の修復をしてくれた 地元の仏師の方が本尊の設置に 同行して、栄福寺に来てくださったので いろいろ本堂で楽しくおしゃべりしました。 僕はおじいさん、おばあさんの 話を聴くのが、わりに好きです。 高野山時代に友達のじいちゃんが来た時 「話の聞き役」として 家に招待されたこともあります。 最近のヒットは地域の掃除当番に参加した時の 「シベリア強制労働」の話が引き込まれました。 この仏師の方も最初はお互い、 「いや、いや、この度はどうも。」 「おっさん、この度は、どうも」 と距離のある感じだったんですが、 30分、1時間と話すうちに ざっくばらんに、お話ししてくれるようになりました。 “大事にしたいもの”が似ている部分がある、と 感じました。 少なくても僕は。 この方のお話で、いくつか「思うとこ」ありましたよ。 例えば修復する過程で本尊様を 削ったりする場合もあります。 でも、彼はその木の粉を 「別の部分の修復」(例えば台座とか) に使ったそうです。 込められた“思い”を少しでも“利用”したいから。 「骨董品の修理をしている訳じゃ、ないからね。」 よくよく聞くと、この人は この辺りの、ありとあらゆる 仏像、お堂の修復に関わっています。 その技術は全部、父親から学んだそうです。 そのお父さんは仏像だけでなく 畳、障子、壇、金箔なんかの“張り”と 「お寺の中身を一人で作れる」 ほどの人だったそうです。 すごいね。 “これからのお寺”についても 少しお話ししました。 まだ、仏師の人が若かった頃。 本堂の建立に深く関わったお寺がありました。 でも新しい本堂が“世界的建築家”の設計で 建立されたそうです。 でも、あまり好きじゃないらしい。 「どうしてですか?」 「“観光地”みたいだった。」 これは結構、難しい問題だよね。 「宗教施設」というのは アーティスティックな感性を持った 建築家にとって“面白い存在” であることは間違いないと思います。 「住宅」という「日常の空間」において ある種のギミック、しかけ、というものが “ジャマなもの”になる場合は多いと思います。 でも「宗教施設」は、 ある意味「非日常」で「通りすぎる」存在です。 しかも提示すべき“メッセージ”が かなり明確に存在します。 だから、僕も、いつか 感性のあった建築家と仕事がしたいです。 でも、いままでの 「お寺」という既成概念から見てしまうと “チャラチャラした観光地”みたいで “おちつかない雰囲気” と指摘されます。 しかも、その指摘は あながち間違ってない場合も多いと感じます。 で、僕は思う訳なんだけど この隙間を埋めるのは 施主になる「坊さん」が 宗教家として どれだけ明確にプライドを持って 自分自身の価値観、美意識を提示できるか? にかかっていると思います。 お寺というメディアのクリエイター なのは「坊さん」なんだよね。 だから、コラボレートしなきゃいけない。 そう思います。 でも、この仏師の人 「観光地っぽいのはいやだなぁ。」 と言いながら、こんな事も言ってましたよ。 「おっさん、本堂にひっついた山ってお寺の土地ですか?」 「違うと思いますけど、どうしてですか?」 「いや、ここに“どうくつ”みたいなの掘ってね、 板東とか西国の霊場の本尊さんのミニチュアを ズラーット並べると、みんな喜ぶし、ありがたいなぁ。」 それって観光地っぽくないか? と心の中でツッコミました。 「いいですね。でもあんまりキレイに作ると それこそ“観光地”って感じですよね。」 (ミッセイ、やんわり突っ込む) 「そう!だから回りのコンクリは“打つ”んじゃなくて “投げつける”の!!」 (興奮して手がワナワナ震えている。) そんな会話をしながら 「山に穴を掘って」何らかの宗教体験の “本質的ギミック”にするアイデアはいただき! と心の中にメモしました。 仏師や建築家、画家、坊さんが、いつの日か 「山の穴」というテーマに ミーティングをする場面を思い浮かべると ワクワクします。 ほんとワクワクします。 ミッセイ |
2002-04-10-WED
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