坊さん。 57番札所24歳住職7転8起の日々。 |
第49回 文政12年の台灯籠(だいとうろう)を 修理に出す ほぼにちは。 密成です。 今、栄福寺は、いくつかの事業が 並行して進んでいます。 1つは(栄福寺では)7年に一度行われる 常楽会(じょうらくえ)の記念事業である 本堂の「戸」の総入れ替えです。 全部で12枚。 前の戸が80年ぐらい前のだから かなり、痛んでました。 僕達が、最初にこだわったのが 「どうしても、木でやりたい。」 ってことでした。 他の選択肢はアルミサッシとかです。 これは、雰囲気を考えたら したくない選択でした。 耐久年数も80年もてば 言うことありません。 でも、総代さん(そうだい、檀家さんのまとめ役) に相談したら 「そりゃ、無理じゃろ。」 って事でした。 理由はズバリ経済的理由。 まぁ、あきらめるしかない とも考えていました。 でも一応、両方の見積もりを 業者さんに出してもらったんです。 そしたら、なんと総ヒノキにしたほうが お安いんですね。 迷うことなくゴーサインです。 お寺の建物の大きさだと 既製品のファーマットになくて アルミサッシとかだと、特注になります。 そんなわけで、すごーく高くなってしまうみたいです。 そこで安くて、いい木をたくさん持っている 人を探してもらったんです。 よかった。 ちょうど同時期に 大きな空海像をお遍路さんが 建立してくださり、 その工事も今日終わりました。 庵治石(あじいし)という 香川県の庵治町で産出する石で 作られた空海像です。 とても目の細かい石です。 石を持ってこられた石屋さんとの会話。 「和尚さん、 この石と、この石では(同じ庵治石) 倍、値段が違います。」 「うーん、僕には全然わかりません。」 「わかったら、石屋になれます。」 ナルホド。そーゆーものか。 でも、今回の事業の中で 僕が一番エポックで、思いで深い 事業になる予感がしている事業があります。 それは本堂にあった、古い台灯籠(だいとうろう) を修理して塗り直してもらっている事です。 (まだ帰ってきてない。) 台灯籠というのはロウソクを置く台です。 今は、用心を考えて電気ですね。 栄福寺の本堂には3対、台灯籠があったんですが 僕は、シンプルな形の四角い台灯籠を直したかったんです。 でも、母は文政12年作のありふれた形の 台灯籠を直したい言ってきました。 そこで、 仏師とか、仏壇屋の社長とか、障子張りの職人に 意見を聞いてみたら、全員母と同じ意見でした。 「これは、カタがいい。」 「いま、やろうと思ったら大変だよ。」 そういう問題かな?とも思いましたが なんとなく予感がして みんなの意見通りにしました。 どうしてこの事業が 僕にとって印象深かったかというと 僕がやりたい事っていうのは たぶん、大きく二つに分けられるんです。 「積み重ねられた時間、思いを大切にして 古いものを直す、復興する、保存する。」 「あたらしい時代の、あたらしい形をみつける。」 例によって言うのは簡単ですが、そう思ってます。 そして今回は前者の、初めての実行なんです。 うれしいな。 これは“きれい事”だけではなくて 特に、僕たち若い世代にとって 「古いもの」というのが なんか、ワクワクする存在だと思うんです。 先入観がないし、古着着てるから お金がないなんて、あまり、誰も思わない。 新しい、どこかで見たようなモノより 僕たちは、ドキドキしたいんだよね。 これは、“商品性”にも繋がります。 ここで使う、この言葉の意味は 「その場に集う、モチベーション」 って呼んでもいい。 そういうものが、たくさん、あって欲しい。 実は、うまくいっている事だけではなくて 「しまった、するべきじゃなかった。」 って事だってあります。 今はプランを練る時期だって思うこともあります。 別の言い方をすれば、 そう思えるのは失敗したからでもあるね。 でも、今のところ、 「モノサシ(判断基準)は自分の正直な感情」 というスタンスで、だいたい行こうと思ってます。 それは、正直言うと僕は必要以上に 「人の意見に流されやすい性格」だし (ほっといても、人の意見は加味される。) そのわりには、自分の感情の 「pop性」というか「いい具合の大衆性」 というのを、結構、強固に信頼しているからです。 なんでそう思うんだろう? でも、そんな気がする。 ミッセイ |
2002-04-15-MON
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