坊さん。 57番札所24歳住職7転8起の日々。 |
第52回 夢に出てくる人を供養する。 ほぼにちは。 ミッセイです。 知り合いの、おばちゃんから 電話がかかってきました。 「おっさんに、相談があるの。」 「はい、なんですか?」 「私の友達が最近、亡くなってね。 その子が、私の友達の夢に いっつも、出てくるらしいの。 その亡くなった人はね、 栄福寺にも、よくお参りしてたんで、 おっさんに相談しようと思って。 その子連れて、栄福寺に行っていい?」 僕は、除霊とかについては 正直よく解らないけれど 亡くなった方が、 “供養されてないかもしれない” と近くにいた方が、考えるなら その方のために供養法を修します。 “気持ちの問題”でも、あると思うしね。 でも、僕がここで使う “気持ちの問題” という言葉は、みんなが思ってる ニュアンスとはたぶん、少し違います。 僕が修行している 真言密教の修行では 三密(さんみつ)という 身 語 意 がベースになってます。 つまり 手に印を成して(身) 口に真言を唱えて(語) いろんなイメージを 思い浮かべます。(意) もちろん 上の説明は みんなが解りやすいように 簡単な言葉での説明です。 それだけではありません。 “わかりやすく言えば” ということです。 最後の“イメージ”(意)ですが、 例えば、 自分が大日如来であることを イメージしたり 舌の上に特定の梵字があるのを 観想(かんそう、心に想い浮かべる) したりします。 最初は“イメージ”を重要視する この考え方が、しっくりこない 感じがしました。 でも 素もぐりの、記録保持者の人と 酸素ボンベを持たずに すごく標高の高い山に、登る人が インタビューで 同じ意味のことを 言っているのを聞いて、 「“イメージ”というのは 個人の物語の中での “フィクション”に終わることはなくて なんかしらの “実質性”みたいなものを、 含んでるかもしれないな。」 と思うようになりました。 その言葉は、 「私は、海に潜るとき、“海になる”」 「私は、山に登るとき“山になる”」 という言葉です。 違う人の言葉です。 この言葉を聞いた時は 「あっ、そうなのかな。」 と思いました。 その“イメージへのささやかな信頼”が 僕が“物語”や“物語としての宗教” に対して、ある真実性を含んだ話として 対峙できる、モチベーションにも 繋がっています。 だから“気持ちの問題” というのは、 「供養してあげたい。」 「供養してあげた。」 という共通の想いが “満足”ではなくて (それも含むんでしょうが。) “実質的な何か” を含むんじゃないかな。 と思うわけです。 僕たちは脳や身体や眼から 世界を認識できます。 そうなんだろうな、きっと。 でも、僕たちが 見えている世界が それらが捉えることのできる ものすごく、限定的なものであることを 僕は時々、思います。 あるいは強烈なフィルターを通した ものだってね。 仏教でも 主体が持つ立場、性質によって 客体というものが 常に違った存在に変化する という立場をとります。 そのジレンマから 逃れるために“空”でいったん 主体も客体も否定したんだね。 密教は ストイックで合理的な 初期の仏教思想に ずーっと昔から行われていた 呪術や民間信仰なんかを取り入れた すごくミックスチャー的なものです。 真言や陀羅尼(ダラニ、一般に長い真言) というのも、そもそもの始まりは 農作業をしている農民が 蛇に噛まれれないように、 口に唱えていた“おまじない”が 始まりだという説もあると 講義で、聴いたことがあります。 生活の中での ツール的側面も強かったのかもね。 僕は思うのだけど 昔の人ってのは “自分達が見えてない、なにか” に対して、敏感で常識的だったんじゃないかな。 今は、色んな事に説明ができるので (悪いことでは、ちっともないと思います。) 見えないものに対しての 想像力が怠惰になってるんだと思う。すこし。 だから、僕が、例えば 真言を口にするときには なんかしら、見えてない何かに 力を(“運動”かな) 加えるイメージをします。 “呼びさます”というか。 そんな話を 拝む前にしました。 「だから、 皆さんも、 本気で、その人が 供養できるように、 想ってくださいね。 協力して下さい。」 こういう風なことを 頼まれたのは、初めてだったので 拝んだ後は、少し疲れました。 精神的にも。 でも、午後から 雨が降る動物園に 子供の頃以来に訪れたら なんか、気分が晴れました。 入り口のゲートで、 「雨が降ってるんで 動物は、ほとんど 引っ込んじゃってますけど、 いいですか?」 って聞かれたけど 間違いなく、雨の方が 元気な動物が多かったなぁ。 “営業スマイル”じゃない感じ。 晴れた日にも、また行こう。 ミッセイ |
2002-04-28-SUN
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