坊さん。 57番札所24歳住職7転8起の日々。 |
第76回 こんぴらさん ほぼにちは。 お久しぶりの、ミッセイです。 突然ですが、 栄福寺の看板をデザインしました。 看板屋さんに、 いくつかの作例を、 出してもらったんですが、 正直、僕が持つ “栄福寺のイメージ” とは、少し違う感じがしました。 困ってしまった訳ですが、 デザインをやり直してもらうよりも、 「まず歌え。」 というわけで、 自分のマックで、作例を作って、 看板屋さんに渡しました。 こんな感じになりましたが、 どうでしょうか? とりあえず、 身近なところからでも、 こだわった方が、 おもしろそうなので、そうします。 ところで、 栄福寺では、 「金毘羅(こんぴら)さん」 という行事が行われました。 栄福寺は仏教寺院ですが、 金毘羅堂の前では、 柏手(かしわで)を打ちます。 (手をパン、パンと鳴らす) 明治以後は、 大きく変わりましたが、 仏様と神様は、 日本では、もっと近くにいました。 僕が高野山で修行していた時も、 伽藍にお参りする時は、 高野明神という、 神様にお参りしていました。 大黒天も、荒神さんも 道場で拝みましたよ。 栄福寺の伽藍は、 本堂、大師堂、薬師堂と並んで、 この金毘羅堂が、 あるんですが、 これは、おそらく 金毘羅さんが、 薬師十二神将のひとつだからです。 そんなわけで、 毎年、 地元の人達が交代制で、 昆布や、大根なんかの お供え物を持って来てくれます。 そこで、僕は 地域の五穀豊穣や家内安全を 祈願する訳なんです。 「おっさん! なんで、この金毘羅さんだけ、 寺の中で“地元担当” なんじゃろか?(なんだろうか?)」 「氏神(うじがみ)さんの 関係じゃないですかね?」 「でも、 この辺の氏神さんは、 裏山の松尾神社じゃろ?」 「そうですよね。 う〜ん。」 全国的に 「こんぴらさん」 と言えば、 香川県の琴平町にある 金刀比羅(ことひら)宮の事です。 ここは松尾寺という お寺の鎮守社の金比羅権現が、 明治に独立したものです。 おんなじ“松尾”ですね。 (松尾神社と松尾寺が) なんか、関係があるのかなぁ。 今度、松尾神社で聞いてきます。 こういうのって、 考え出すと結構、おもしろいですね。 で、 午前中にこのお役目を、 済ませた僕は、 午後から、 その琴平の金刀比羅宮に、 行ってみました。 (高速で2時間ぐらいで行ける。) こちらは、栄福寺の 坊さん一人、参拝者3人とは、 スケールが違って、 お祭りでごった返していました。 僕もゲームキューブが一等の、 輪投げをしたり、 (500円、15投、かすりもせず。) 大判焼きの中にタコが入った 食べ物を食べたり、 (まずかった。) 楽しみました。 参道沿いには、 地元の小学生達が 将棋を指しながら、 みこしが通るのを待っています。 ながーい、 階段を上りながら 歴史のぎっしり詰まった、 雰囲気や建築に圧倒されました。 「僕がアイデア1つで、 お寺をいじっていいんだろうか?」 と、積み重なった 時間のすばらしさを、 自分の仕事と照らし合わして、 一瞬、へこみました。 「ま、いいや。 こんな坊さん一人ぐらい、いても。」 と前を向き、 「あっ、まだ、なんもしてなかった。」 とずっこけました。 本殿まで登り切ると、 正装した神社の人達が 雅楽を演奏していました。 「おもしろいなぁ。」 と観ていたら、 なんと、その内の一人は、 大学の同級生。 実家は金沢だけど、 金刀比羅さんで働いているらしい。 確かに神道の話をよくしていたし、 いつもデニムの カバーコートを着ていて そこに無数の、 能や歌舞伎のバッジを付けていた。 (こういう人が、 高野山大学には、結構いる。) 聖徳太子みたいな格好のまま つかつかと、 こちらに歩いてきて (おいおい、儀式の途中じゃないのか?) 懐かしい再会を喜びました。 ミッセイ |
2002-10-17-THU
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