坊さん。 57番札所24歳住職7転8起の日々。 |
第82回 本能が足りない? ほぼにちは。 ミッセイです。 最近、 僕は地元のお寺に、 「伝授」に行ってきました。 “伝授”は真言宗の、 お坊さんにとっては、 とっても重要な事なんです。 と、いうのも 真言宗では修法のやり方は、 師資相承 (ししそうしょう、師匠から弟子へ法を伝える) を基本にした「口伝」(くでん)を、 とても大切にするからです。 紙に書いてある「次第」(しだい)と、 口伝に相違がある場合は、 口伝を採る場合も多いです。 今回は正式な「伝授」だと、 いろいろ制約があって、 時間的にも収まらなくなるので、 「講習会」というスタイルで、やりましょう。 という講師の方の、提案もあって、 壇の結界に使う「金剛線(壇線)」を 本堂の柱に竹を結びつけて、 五色の線を張って 何十人もの僧侶で実際に作ったり、 なかなか、興味深いものでした。 この時の写真があれば、 とっても面白いんですが、 基本的に密教って、 法を公開するのを禁じてるんだよね。 これをしてしまうことを、 「越三昧耶」(おつさんまや) って言います。 だから、僕達が「印」を組む時は、 衣で隠して、組みます。 でも、これもいろんな人がいて、 とっても偉いお坊さんが、 一般の人の前で、印を見せながら 修法する方も、おられますし、 なかなか難しいところです。 この場合は、 これにあたらないと思うんですが、 一応、やめておきますね。 ちなみに、 絹で使った金剛線もありますが、 今回は「木綿」でした。 これは「絹」を作る時に、 「かいこ」が死んでしまうので、 「不殺生戒」に反するという、 判断からということでした。 僕が着ていった衣は、 ・・・絹でした。 今回の伝授は「講習会」という、 スタイルをとっているだけあって、 講師の僧侶のざっくばらんな話が、 聴けました。 「5〜6年前、ホントーに “拝むこと”に悩んでしまって、 実は般若心経さえも、 唱えることが、出来なくなりました。 そこから、抜け出したのが、 自分でイモを作ったときの話で・・・、」 みたいな話が続きました。 僕にとっては、 「そう、そう、そこの “根っこ”の 部分から聞きたかった!!」 ということが、多かったです。 で、うまく言えないんだけど、 宗教とか、 なんらかの表現に深く携わっている人って、 ある意味、 「本能がやや、不足している。」 人達の集団なんじゃないかと思いました。 えーっと、ネガティブに、とらないでくださいね。 悪い意味でなくて。 特にいい意味でもないんですが。 「本能がやや、敏感」 とも言えるかもしれませんけど。 なんで、そんな、けったいなことを 考えたかというと、 「生きていることは“苦”である。」 とか、 「全ては空である。」 ということなんかは、 「生存のためには、考えない方がいい。」 ことかもしれませんよね。 “なかったこと”にしたほうが、 話が早い。 考えることは、苦しいこと でもあると思います。 もちろん、おもしろくもあるんだけど。 でも、その、「失われた」感性を使って、 「生きること」と正面から、 対峙せざるをえなかった、 宗教家(例えば釈尊)なんかは、 通常の本能を持った人達の、 「なにか」を呼び起こした、 のかなぁ、って考えたりしました。 「やや、不足している。」 って言うのは、 「やや」じゃなかったら、 うまく現実的な生活を、 営めないと思うんです。 その辺のバランスが、 先天的にとか、まわりの環境から、 奇跡的に、“まとまりを持った”人達が、 宗教とか、表現とかに、 深くコミットするんじゃないかなぁ。 こんなことを、考えたのは、 傲慢な言い方に、 聞こえるかもしれませんが、 “自分”にもそれを、 たまに感じるんですね。 僕の場合「とても、とても、やや」ですが、 褒めてませんよ、自分。 (ほめたって、いいんでしょうけど。) 「んなこと、考えなくて、いいよ。」 ってこと、よく、考えたりする。 「本能が、(やや)たらんなぁー。」 ってことも。 だから、自分で“あみだして” 考えるしかない。 もちろん、 心や宇宙の本質なんかを、 じっくり見つめられるのは、 人間の持っている、 本当に素敵な「本能」なんだけど、 それは、見方を変えれば、 「足らない」という部分でもあるんだ、 ということは、 謙虚な気持ちで、 宗教家や表現者や人間が、 そっと、目を向けておくべきものかもな。 と、思いました。 ほら、よく 宗教とか、芸術に深く関わっている人が、 「本質みたり!」 みたいなこと言うこと、 あるじゃないですか。 そこに、自分や人間の本能に対する 恐れとか、謙虚な気持ちが、 あったほうが、いいんじゃないかと、 思うわけなんです。 えーっと、 自戒を込めて。 ミッセイ |
2002-11-27-TUE
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