坊さん。 57番札所24歳住職7転8起の日々。 |
第90回 本能をはずす。 ほぼにちは。 ミッセイです。 「大投票GOODorBAD?」 の、ー合コンー おもしろかったねー。 僕は、 「坊さんVS葬儀屋さん」 の合コンに行ったことが、あるぜ! (なぜ、いばる?) ま、合コンといっても、 大きな葬儀の慰労会みたいな感じで、 既婚者の方も、何人も、おられましたが、 男女の数も同じだったし、 話として、おもしろいので、 「あれは、コンパだったのだ。」 と、個人的に主張しています。 コンパで、 仕事の話ばっかりする、 男の人って、 「サイテー!」 らしいですが、 葬儀屋さんのお姉さま方に、 仕事の話は、 普段、聞けないので、 (お葬式でしか、会えないし、 もちろん、そこで、 ベラベラ話すわけには、いかない。) 僕は、仕事のことばっかり 聞いてしまった。 女の子も、 普段、一緒に仕事をする割には、 いまいち、生態がつかめない、 “坊さん”の生活に興味があるみたいでした。 「おぼうさんって、 休みの日とかは、何してるんですか?」 というのは、誰からも、 本当によく聞かれる質問です。 「もっぱら座禅。」 「木魚みがき、ぐらいかな。」 と、答えるようにしています。 いろんな新年会で、 夜、家を空けることが多かったので、 わりに久しぶりに家の部屋で、 「自分会議」という ひとりミーティングを、 していたのですが、 (「おとなの小論文講座」を 参考にして、夢に日付を入れてました。) そこで、ふっと、頭から 離れなくなったことがありました。 うまく、言えるかどうか、 わかりませんが、 考えながら、書いてみます。 仏教で言うところ、 「“こだわり”を捨てる。」 って、 言葉が、なんか、引っ掛かったんです。 あらゆる“執着”とか“欲求”とから、 離れることで、苦しみから解放される。 という、 仏教の基本的な考え方。 これをね、すっごく、 考えてみたら、 よく、わかんなく、なってきたんです。 例えば、 僕や、あなたが、 「とても、さみしい」 気分で、 「人に会いたい。」 と、思いました。 この、 「とても、さみしい」という気持ちは、 人間の生存にとって、 とても、 大切な“脳のしくみ”だと、思います。 特に異性に対しては。 そうだよね? でも、例えば全ての人が 厳密な仏教的な意味で “出家”して“悟って” 欲望から解放されたとしたら、 人類は滅びてしまいます。 身も蓋もないこと、言ってしまいましたが。 これは仏教に限らない話で、 多くの宗教が宗教者に禁欲を求めます。 そして、多くの宗教の理想は、 たくさんの人が、“深く目覚めて”、 宗教者になることですよね。 禁欲というのは、 考えてみると、 不思議な話だと思ってしまうのです。 これは、僕が学生時代、 高野山に住んでいた時から、 たまに考えていたことです。 そして、ある「論文」で、 こんな風に解釈しようと思って、 書いたのを思い出します。 「人間は、他の動物と比べると、 “超・特殊”な存在です。 生殖以外の目的でセックスをするし、 核戦争で何度も地球を破壊できるし、 宇宙船で宇宙に飛んでいける。 この、“超・特殊”な 存在や欲望に気付き、 恐れた人間は、 宗教における、“禁欲”を、 安全弁のような、 調整器として設定した。」 みたいな感じで書いたと思います。 その時は、確かにそう感じたんですが、 今、考えると、 結論を早急に求めて、 書いていたような気もします。 僕の学んだ、真言密教では、 (仏教は全般にそうなのかもしれないけど) “相対”というのを、 徹底的に否定します。 大の裏側は、小ではない。 大は小である。 小は大である。 大は時に大である。 みたいな感じです。 この「大・小」は、 “例え話”であって、 「聖・俗」や「欲・禁欲」、「愛・憎しみ」 なんかにも、あてはまります。 日本の真言宗の僧侶が、 いろんな場面で、よくお唱えする、 「理趣経」というお経があるのですが、 そこには有名な、 「17の清浄句」という部分があります。 ここでは、セックスや愛のなかの、 かなり具体的な 心理描写や行為を 次々と17個、挙げて、 「それも菩薩の位なんだよ。」 と、全てに付け加えます。 「所謂 妙適清浄 句 是 菩薩位」 (そい びょうてきせいせい く し ほさい) “いわゆるセックスの快楽が 本来、清らかなものである、 ということは、 そのまま菩薩の立場です。“) 「適 悦 清浄 句 是 菩薩位」 (てき えつ せいせい く し ほさい) “異性と抱き合うことが、 本来、清らかなである、 ということは、 そのまま菩薩の立場です。“) その他にも、 相手を縛りたい(えーっと、心理的に) と、思う気持ちや、 離れがたいと思う気持ち、 相手のために身を飾る気持ち、 すべて菩薩の立場なんだよ。 と、説いています。 これは、 あらゆるものが、全て、 清浄なる部分を持っている。 という“壮大なる、たとえ話” という解釈が一般的なのですが、 ストイックな“禁欲生活”が一般的だった、 昔のお坊さんには、 かなり刺激的な内容だったでしょうね。 “たとえ話”意外でも、 密教では、人間の持っている “本能”や“欲”を 積極的に用いようとする、 側面を部分的に持っています。 でね、僕が、今、 どう、思っているかというと、 “はずす”ということが、 擬似的に、 そして一時的にできないかな? と、ささやかに考えています。 本能や欲望を、 否定することはできないし、 こわいものである反面、 すばらしい部分の方が多いと思う、僕は。 でも、一時的に、 「本能」を“はずして” “違った”場所から、 自分や他人や自然や、 いろんなものを、 観てみる、ということです。 もちろん、 正確な表現でないことは、 わかっています。 さっきも言いましたが、 “擬似的に。” “ずらす”と言っても、いいかもね。 そして、 例えば“恋”や“憎しみ”を感じて、 本能がいっぱいになった、 心の中でも、 “はずした”自分を、 少しだけ残しておいて、 それを、観ていたい。 と思っています。 これを思いついたのは、 僕は、すごく、 “めんどくさがり” なんですが、 時々、 「めんどくさがってる、 自分が、もっと、 めんどくさい。」 と思うんです。 そして、 「よし、 今日は“めんどくささ”を、 はずそう。」 と、たまに、考えることがあって、 わりに、うまくいくことが、 多いんです。 記憶が定かでは、ないんですが、 スピードスケートの清水選手の トレーニングは、 「本能のストッパーを“はずす”」 的なものである、と聞いたことがあります。 でも、これも、 全面的にはずすと、 清水さんは死んでしまうので、 はずした自分を、 頭のどこかで、観てるはずですよね。 「どこまで、ずらすのか?」 って、ことをね。 ここまで書いて、思ったけど、 僕が人より、 音楽を聴くのが好きだったり、 スポーツを観るのが好きだったり、 自分で写真集や絵本を作ったりするのは、 “本能をはずしていない瞬間” というのが、やっぱり、 気持ちがいいんだろうなぁ、と 自分で想像します。 その時も、やっぱり、少しは、 はずしているんだけど。 宗教的な話かどうかは、 わかんないけど、 疑いの目を、 素直に持って、 “楽しさ”を真剣に 観ようとする目線は、 どこか、 ハッピーに繋がっているはず、 と、 僕は、思っています。 ダンス、ダンス、ダンス! うまく、言えないけど、 生きていることは、 とても、好きです。 ミッセイ |
2003-02-06-THU
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