坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第102回 願いがある場所。

ほぼにちは。

ミッセイです。

日本の大概のお寺には、
“山号”という山の名前が付いていて、
これは、
平地にあるお寺でも例外ではありません。

この習慣が日本に伝わったのは、
鎌倉時代で、禅宗の伝来と共に、
中国から伝わりました。

それを、いつのまにか、
他の宗派も付けるようになって、
今に至る、という感じです。

結構、
このパターンは仏教には多くて、
 
「浄土真宗の習慣が、いつのまにか・・・。」

という風に、
どんどん、
人々の中で取り込まれていきます。

たぶん、この理由は、

「いいなぁ。」

とか、

「ちょっと、かっこいい。」

という素朴な思いと、
かなり関連がある。

というのが、僕の考えです。

ちなみに、
栄福寺の山号は「府頭山」(ふとうさん)です。

僕が儀式の中で、
僧侶として、
読み上げる文章の最後には、
“栄福寺”を抜いてしまって、
単に、

「府頭山 密成 敬って申す。」

と言ったりすることもあります。

この府頭山、
“山”と呼ぶには、
すこし、小さすぎるぐらいで、

ふもとから登って、
頂上を通って、
反対側に行っても、
20分ぐらいしかかからない、
本当に、小さな山です。

でもね、
この前、
春の陽気があまりにも、
気持ちよかったので、
府頭山を歩き回っていたら、

この小さな山に、
びっくりするぐらい、いっぱいの、
寺、神社、お地蔵さん、ほこら、仏像・・・、
があるんだよ。

今さらながら、

「なんか、すごいなぁ。」

と思ったし、

今回、初めて、見つけたものも、
ありました。

それでは、
しばし、
ミッセイと、府頭山ツアーへ。

まず、山頂には、
明治時代までは、
栄福寺と同じ境内にあった、
(栄福寺も山頂にありました。)

「石清水八幡宮」

があります。


「石清水八幡宮」

子供の頃、
毎年、祭りの時に、
みこしをここまで、担いできて、
宮司さんに、
(僕達は“おたゆうさん”と呼んでいた。)
“たましい”を入れてもらっていました。

階段を下りて、右手に回り、
また少し登ると、
「浄寂寺」の入り口が見えてきます。

臨済宗のお寺なので、
僕は初めて来ました。


「浄寂寺」

その他にも、
府頭山の中には、

「三嶋神社」という
神社があったり、


「三嶋神社」

本当に寺社仏閣がいっぱいです。

それだけでなくて、
「虚空蔵菩薩」(こくうぞうぼさつ)を、
お祀りした、
すごく掃除の行き届いた、
初めて見た、小さなお堂が、
少し奥まった、
林の中にありました。


「小さなお堂(虚空蔵菩薩堂)」

じいちゃんのお墓へ続く、
道の近くには、
「鳥越地蔵さん」があって、
新しいお線香から、
もくもくと、煙が出ています。


「鳥越地蔵さん」

職業的直感として、
(と、言うほどの事ではないですが。)
日常的にかなりの、
お参りがあるんだと感じました。

ここのお地蔵さんは、
お姫様と、
その娘さんの供養のために、
作られたというお地蔵さんで、

「主に、目、腹、学業に、御利益」

があると記されています。

関連性に、
いささかの疑問が、
ないでもありませんが、

僕が子供の頃の記憶として、

「鳥越の地蔵さんで、
 立ち小便をしてた、あいつ、
 すーごい、腫れたらしいぞ。」

「どこが?」

「どこって、あそこ!」

「そりゃ、あいつが悪い!!」

みたいな会話が、
かなり“常識”として、
大人達の間で、
交わされていました。

かなり気合いの入った、
民間信仰を持っています。


僕も、そこで、
手を合わせ、合掌する。

僕は、普段、
栄福寺の勤行で、
手を合わせる時、
ほとんど、
“願い事”をしません。

他のお寺でも、
あまりしないと思う。

じゃあ何を、思うの?

と言われると、
何故だかうまく言えません。

なにも、
思っていないのでは、ありません。

ただ、
すごく言葉にするのは、難しい。

でも、ここで、
僕は、願いを心に浮かべる。

そして、その、
じっくりとした時間の中で、
湧き出てくる、
僕の願いが、
普段、何気なく考えている、

“僕の願い”

と、ちょっぴり違うな、と気付く。

すこし、驚き、
自分の意外な思いに、
ワクワクする。

「オレって、こんな事、願ってたんだぁ。」

これって、
単純だけど、実は、
お寺や神社なんかに、
お参りする事の中で、

“いいこと”

の1つかもしれないね。

わざわざ、願いを、確認しに行く。
願いの場所へ。
悪くないと思う。

僕は、
法事のたびに、

「死んだ人を、思い出してください。」

と、繰り返し言います。

これは、
法事が単なる儀式ではなくて、
現実に生活する人にとって、
有効な物語になって欲しいし、
“宗教”だから、
語れる、気付ける、
物語と聴衆が存在する、
という思いがあるからです。

そして、
この、

“願いがあることの確認”
“願いと出会うこと”
“願いを、言ってみること”
“願いを考えること”

なんかは、
同じように、
今の時代を生活する、
みんなや僕が、

簡単にお寺や宗教を、
有効利用する、
1つの方法だと思います。

その時、
お寺はとても、
強力なメディアです。

栄福寺も願いを思うための、
“お気に入りの場所”
に、なるべきだな。
どうすればいいかな。

これも、
頭のリストに入れて、
構想を考えよう。

なんだか、
ひどく単純な話では、
あるんだけど、

散歩“夕方の部”を遂行しながら、
春の空を見て、

「“願い”があるって、
 やっぱ、すごいな。いいな。」

と思いました。


「栄福寺周辺、空の夕方」

ミッセイ

2003-04-06-SUN

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