第108回 人間であること。動物であること。
ほぼにちは。
ミッセイです。
春は、とても、緑が綺麗で、
過ごしやすい季節なので、
お遍路さんの数も、とても、多くなります。
お遍路さんは、
納経帳に、
筆で書いてもらった文字の、
墨が他のページに、にじまないように、
大概、“あてがみ”という紙を、
はさんでいるんです。
特別な和紙を使っている人も、
いたりしますが、
ほとんどは、新聞紙です。
中には、たまたまだと思うけど、
エッチな漫画を、
あてがみに使っている人もいたりします。
だから、
というわけでは、
もちろん、
えーっと、もちろん、
ないのだけど、
僕は、瞬間的に、この新聞を、
眺めてしまうことが、あります。
「あー、あの事件の犯人、捕まってたんだ。」
「あっ、あの本が載ってる。」
とかを、1秒ぐらいの間で、
無意識に考えるわけです。
その時、お寺はメディアです。
というのは、冗談ですが。
そして、今日、
納経した後でも、
なんとなく、頭に残っていたのが、
スポーツ記事です。
すごい形相で、
ヘディングで競り合う、
サッカー選手の写真が、
頭の中に残像として残っていて、
ふと考えました。
「プロスポーツって、なんで、するんだろう?
人間って、ヘンタイじゃないのか?」
と思いました。
ちなみに、
僕は普通の人に比べると、
かなり、
スポーツもスポーツ観戦も、
好きな方だと思います。
いや、まちがいなく。
でも、ふと、
自分たちが設定したルールで、
自分たちが用意した競技場で、
時に、涙を流したり、
激怒したりしながら、
応援したり、競技したりするのって、
“本質としてヘン”
を含んだ話だよなー。
と、不思議な気持ちになりました。
つまり、
「生存に、直接的には、無関係なこと。」
で、必死になってる。
これは、人間を動物としてみると、
かなり、特殊でヘンタイだ。
動物の中で“人間”を、定義するとしたら、
“その1つ”として、この、
「生存に無関係なことで、必死になる。」
というのは、かなりの重要度で
登場するんじゃないかな。
これは、スポーツに限らず、
芸術とか、遊びとか、
趣味とかにも言えることだと思います。
例えばアニメキャラクターをモデルにした、
フィギュア(人形)を、
生活の多くの時間を使って、
探したりすることに、類することを、
マントヒヒは、しないと思う。
“それに類すること”って、
マントヒヒにとって、なんなんだよ?
と言われると、わかりませんが。
そして、
“宗教”というのは、
この“生存”というのを、
大きなテーマに、しながらも、
例えば釈尊は、
「人間が動物として
当然持っている動物性」
みたいなものの一部をとても強く、
恐れた人だと思います。
とてもストイックに、
“人間固有”
であろうとした。
動物的な欲から離れ、
繁殖の為の本能的な愛を捨てた。
そして、それを、他人に勧めた。
「人間だけが、行ける場所。」
に行こうとした。
それは、ちょっと考える以上に、
精神的にアクロバティックで、
強烈な試みだと思います。
あっ、いま、
どうして、釈尊が、みんなが実行すると、
種が絶滅してしまうことを、
求めたのか、すこし、想像できた気がする。
「そんなことが、できる人は、あんまし、いない。」
ことを、知ってたんじゃないかな。
「選ばれし者の恍惚と“自覚”」
みたいな感覚があったんじゃないかな?
(不安も、あったと思う。)
よく、
キリスト教文化圏を批判する、
比較対照として、
仏教が、もちあげられて、
「全てにおいて、
創造主的な“人間中心”の価値観を、
キリスト教は、持っているが、
言うなれば、仏教は、
“生き物中心的”であります。」
という論調を“知識人”や“坊さん”から、
かなりの頻度で聞くような気がします。
“側面”の1つとして、
そういう面はあるのかもしれないけれど、
釈尊は、
人間が人間である事に、
また、
その人間が特別な存在であることに、
恐ろしく敏感で誇りを持っていたんだろうなぁ。
と、想像します。
釈尊は何を見ようして、何を見たのかなぁ。
そして、
人間の動物性の欲の一部や、
暴力性をとりこみつつも、
釈尊が否定した、
“人間の固有要素”
(と、いうのも多いと思うんだ。ややっこしいけど。)
でもある呪術や“おまじない”めいたものを、
再び、とりこんだ、
密教で空海は何を語ろうとしたんだろう?
本当に、宗教は、“おもしろい”と思う。
ただ、僕は、
人間が人間として、
人間が動物として、
持っている
悲しみや、喜びを、
セーブしたり、刺激したりしながら、
抱えたまま、
坊さんという立場で、
みんなや自分に語りたい。
と、
“今”思っています。
図々しい話なんだろうか。
それは“試み”でも、
あると僕は、思うんだよ。
ミッセイ
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