第122回 過去みたいなものを、見つける。
ほぼにちは。
ミッセイです。
さっき、
食事の後で、
ぬかづけを漬けているお母さんの
作業を見ていました。
「結構、大変なんやねぇ。」
「そうよ。
お母さんはね、なんでも、いれちゃう。
ビールとかね。
今日は、“梅干しの汁”入れようかな。
(と、言いながらテーブルの上の
梅干しを、どばっと入れる、実も。)
サケの頭とかを、いれることも、あるんよ。」
ということでした。
本場のキムチは魚の内臓もいれる、
ということを、
聞いたことがあったりして、
「うまそうだなー、食べてみたいな。」
と、思いを馳せていたんですが、
結構、身近にもそういうのって、
あるんだね。
でも、ウチだけの風習だったら、
ちょっと恐いな。
最近、
修法に詳しいお坊さんが、
四国に来られていて、
松山にあるお寺まで、
「伝授」に行ってきました。
その前日は、
高校時代の友達と、
テニスの草トーナメントに、
参加していたんですが、
「明日、
密教の秘法を伝授してもらうために、
お寺に行くんだよ。
“砂”をみんなで拝む、
法会をしたりしてね。
その砂は、わざわざ恐山で、
とってきたものらしくて、
水晶みたいな、
透明の砂が混じってて、
すごいキレイだよ。」
という話をしていたら、
我ながらロールプレイングゲームの中の、
物語みたいだなー、と思いました。
こんな職業がある社会って、
僕は、わりと健全だと思います。
ハリーポッターを読んでいる世代が、
大人になったら、
お坊さんが急増したりしてね。
その伝授の時の話を聞いて、
自分に対して、
響いた言葉がありました、
「“形”を正確に伝える、行う、
ということは、本当に大切です。
伝えられたものが、
あるからこそ、
皆さんは、
法に接することができるわけです。
だから、自分で“つくって”は、いけませんよ。」
なるほどなー、
と思いました。
自分が大きな何かを、
“成し遂げる”ことができなかったとしても、
経を唱え、伽藍を整備することで、
後の人達が、
自分と同じように、
智慧と出会うことのできる、
環境を整える。
チャンスの種を蒔く。
これも坊さんの、
大きな仕事だな。
と思いました。
でも、同時に、
今、仏教には、
かなりの数の宗派があって、
真言宗の中にも、
相当な数の流派があります。
それは、
“伝えられたもの”の、
「見解の相違」の結果であり、
もっと言えば、
その数だけ、
「正確に伝えられなかった」
存在があるわけです。
そのへんの、
「ふれ幅」
みたいなものも、
「なんか、自然だよな。」
と感じました。
矛盾してるみたいな話ですが、
伝統的なものに対する
敬虔(けいけん)な気持ちも、
続きを綴らざるを得なかった、
人達への尊敬や憧れも、
たしかに僕の中にあるんです。
そんな、思索(ってほどのもんでもないか。)
の中で、
「新しいものって、
古いものとすこし、似てる部分があるな。」
と思いました。
「古いものって、
なんで、うれしかったり、
気持ちよかったり、するんだろう。」
と、考えていました。
それって、
1つの「側面」としてですが、
「感情のキャパシティー(容量)
が、ひっぱられるから。」
というのも、
あると思うんです。
僕達が、今、住んでいる、
「場所」というのは、
いろんな要素が、
複雑に絡み合った、
とても限定的な、
“ある側面”
だと思います。
まぁ、「現代」みたいな場所ですよね。
定義のことは、よくわかりませんが、
「今」ってことです。
そこにいて、
「今」の人達や、
「今」の存在と
ふだん、触れている僕達が、
「古い」
アイデアや建物と接することで、
その時代特有の、
「特殊性」を見ることができる。
触ることができる。
そして、その特殊性は、
ほとんどの場合、
僕達も持っている、
心の元型の1つの現出、
だから、僕達も、
「うん、うん、それって、
わかる、わかる。
ある、ある。」
って、感じで、
感応することができて、
ぐーっと、
感情の拡がりとか、
可能性をしっかりと、
感じることができると思うんです。
そして、
僕達の言う、
「新しい」
というのは、
僕達が見ることのできなかった、
宇宙とか社会が、
たまたま、現出しなかった、
「過去みたいなもの」
を、実際の過去との関連性の中で、
見つけてあげる事じゃないかな。
「新しい」
ということを、言うと、
なんか、
その人だけが、
作り上げた、
完全なニュータイプなものを、
僕も想像してたんだけど、
「新」の主成分は、
ほとんど過去と過去的な
成分から成ってるんじゃないのかな。
もちろん、
「新」を見つける作業は、
純粋な過去に触ることよりも、
少し、自由な領域が広いだけ、
見当違いで、
繋がる力のないものになる、
可能性はとても高いと思います。
「つくっては、いけません。」
って、言葉は、
その辺に繋がってくるんでしょうね。
僕は、あたらしい
過去みたいなものに、
とても関心があるけれど、
すこぶる示唆深い言葉であると思います。
僕達にとって、
有効な“過去みたいなもの”ってなんなのか。
それは、
ガラスの中にヒントがあるんじゃないか。
電気の中にも、ひょっこり、あるんじゃないか。
コンピューターネットワークって、
ちょっぴり過去じゃん。
みたいな、視点が、
僕達になんか、ワクワクする、
おもしろいもんを、
見せてくれるんじゃないかな。
ぐーっと感情を拡げて、
エモーショナルな、
人間としての
確認作業をしてくれるんじゃないかな。
なんて、考えています。
もちろん、
室町の大般若経典って未来、含むよなぁ。
みたいなことも、
お向かいの視点からは、
見えてるんだけどね。
僕はこれを、「坊さん」としての、
仕事に使えるんじゃない?
って、思ってるんだけど、
みんなの職業や、
生活にも、
けっこう関係ある話だって思います。
結局、そうじゃないと、
「坊さん」にも、
ほとんど意味ないんだよね。
実際の話。
「新」は、
出てこなかった「過去」を、みつけること。
言葉にすれば当たり前かもしれないけど、
しっかりとした意味での、
「謙虚」とかを獲得するために、
大切な理解だと僕は思うんですよ。
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