坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第124回 やさしくなりたい。

ほぼにちは。

密成です。

ある法会で、
承司(じょうじ)という、
お手伝い係みたいな、
役目をすることになったので、
空衣(うつお)という、
古式の僧服を購入しました。



学生時代の修行中にも、
ずっと着ていた、
高野山特有の僧服なんですが、
色もあせて、
護摩をしていた時の火の粉で、
大きな穴もあいていたので、
新調したのです。

空衣の便利なところは、
作務衣(さむえ)



を着るほどでもない、
ちょっとした作業の時に、
袖に頭をつっこんで、
動きやすいスタイルに、
なることができる所です。



なんか、昔の僧兵みたいですね。

そういえば、
香を盛る時も、
袖が汚れないように、
こうしてたっけ。


最近、
ある僧侶の書いた、
仏教の本を読んでいたら、

「八有暇」(なんて読むんだろう?)
という、
「暇がないという八つの境遇を免れていること」
という“人間の特性”に関する、
仏教の言葉がでてきました。

そして、
以前、僕が、

「第99回 坊さんとロックンローラーはヒマなほうが、いい。」

で書いた事を思い出して、
(ほとんど題名そのままの内容、とも言えます。)

「へ〜」

と再び、考えたりしました。

僕らは、
自分の意志で、
時間を持つことのできる、
かなり特殊な存在ですよね、確かに。

「ヒマなほうがいい」

というよりは、

「すでに、ヒマ。」

な、はずなんですよね。

いろんな生き物と比べたりすると。

なかなか、そうは、
思えないもんですが、
1つの視座として、
いろんな場面で使用できる言葉だな、
と思います。

もちろん「ヒマ」は、
「自由」とかでもいいんだけど、
読む人の感情に「キック」が欲しくて、
僕は「ヒマ」という言葉を使いました。

そしたら、
「八有暇」だったので、
すこし、びっくりしました。

でも、
「八有暇」という言葉に出会う前に、

「ヒマなほうがいい。」

と、はっきり言えたことは、うれしいな。
(「たとえ話」を多分に含んだ表現ですが。)

じゃないと、この言葉、
ここまで届いてこなかったと思うんです。

常に自分の頭で考えるクセをつけることは、
宗教に関わる僕にとって、
すこぶる重要な話だと思います。

そして、
たぶん、あなたにとっても、そうではないかと、
個人的に想像します。


最近、
いままで真言や、
漢文読みで唱えていた言葉の、
一部分を、
お堂で、ひとりで拝む時には、

「現代の日本語の文章にして」

唱えています。

例えば、

「悟りを得るまで、
 私は仏法僧の三宝に救済を求めます。

 布施などの六波羅蜜(ろくはらみつ)を行じた、
 功徳の力によって、
 一切の命あるものに利益をもたらすために、
 仏陀の境地に達することができますように。」

という言葉を、
お経をあげる前に読み上げたりします。
(帰依処、発菩提心などと呼ばれる部分です。)

なんか、日本語にすると、スゴイよね。

でも、こうすることによって、

「“求める”って、なんだろう?」

とか、

「“仏陀の境地”って、どんな感じ?」

と、素直に考えざるをえないので、
続けようと思っています。

そしてね、僕は、思ったんだけど、
仏教は、

「やさしくなりたい。」

ということを、
いろんな方向から、
表現して、動き出そうとした、
存在じゃないかと直感したんです。

多くの仏教の考え方は、
これで説明できると思ったんです。

そして、多くの高僧達は、

「やさしいことは、
 “論理的”に言っても、
 正しいことである。」

ということを、
表明したり、書き残したりしています。

「やさしさは、(結果的に)最大の戦略」

とも、言えるロジックで。

それは、いくつかの場合、

「空(くう)」

を使って、説明されます。

「君を、この世界で、
 君にしているのは、

 君ではありません。

 君がこの世界で、
 君と呼ばれている、
 理由は、
 君にはありません。

 君の含まれる世界の中で、
 君が君になっているのは、

 君と全ての存在との

 関係性や位置関係なのです。

 ですから、君だけの存在は否定されます。

 ですから、
 他のすべての“だけ”は、否定されます。

 全ての君以外の、
 存在(地球や土や宇宙や母や友や匂いや恋人や悪人達)
 をとっぱらって、
 君を思ってください。

 君はいません。

 君は空なのです。

 僕も空なのです。

 色も空なのです。

 すべては空なのです。」

長くなりましたが、
僕は部分的に、
空をこんな感じに、理解しています。
(あくまで個人的な理解、かもしれません。)

そんな世界の中で、
自分の回りの存在に

「やさしさ」

を提供することが、
自分に跳ね返ってくると、
考えた方が、
確率的に言って、
論理的である。

時にそんな風に説明したりします。

実はと言うと、
このこと(やさしさ)を、
思いついた時は、
かなり興奮して、

「そっかー、やさしさだ。

 やさしさって、
 じつは、とんでもないんじゃないか?」

と思って、すぐにでも、
ほぼ日で伝えたかったんですが、
(根が非常に単純なんです。)

「ちょっと、待ってから、書こう。」

と思い直しました。

でね、いろんな人と係わったり、
生活したりして、
心から思うんだけど、
やさしいのって、簡単じゃないね。

とても、難しかった。

自分が、やさしくないことを、
1日に何度もみた。

やさしい人は、すごいと思いました。

やさしくなりたい、と思いました。

そして、言うまでも、
ないことかも知れませんが、
ある人の心からのやさしいさは、
ある人の機嫌を、
損ねることだってあります。

そうだよね?

「やさしさ」

これが、
仏教の大きなテーマであることは、
なんとなくわかった。

そのことだけでも、
とりあえず、
みんなに伝えます。

これは、もちろん、
「仏教」という存在を越えた、
想像以上に、
とてもスケールの大きな話であると、
僕は、思います。


ミッセイ


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2003-08-07-THU

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