坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第126回 集合だけでなく。孤独だけでなく。

ほぼにちは。

ミッセイです。

この前、
葬儀場での、
お葬式に助法のお坊さんとして、
出仕してきたのですが、

次の日が、
「友引」の関係で、
同じ時間帯に、
けっこうたくさんの、
お葬式が入っていました。

僕達が、
お葬式を終えて、
控え室に引き返す時、
違う宗派のお坊さんと、
すれ違いました。

ちょうど、
入場される時だったので、
着物も、
葬儀用の衣帯(えたい)だったのですが、
他の宗派の方の
お葬式の衣帯は初めて見たので、
びっくりしました。


記憶の中の曹洞宗僧侶

「わー、すごい、服でしたね。
 どこの宗派のお坊さんなんですか?」

「曹洞宗の方じゃないかな?」

「ターバンみたいでしたね・・・。」

「うん。ターバンみたい・・・。」

相手の方も、
びっくりしたかもしれません。

「うわっ、この坊さん、金キラやん。」

とか思ってるかもね。


「ほぼ日」の読者は、
本当にいろんな人達が、
おられるようで、
僕にくるメールも、
かなりカラフルな時があります。

一度、

「私は、ヘモグロビンの研究をしている学生です。
 ちなみに明日は、デートです。」
(以上要約)

という女性の方からメールを頂いたことがあって、
僕には、想像もつかない世界なので、
ヘモグロビンの研究の内容を、
かいつまんで、
ほんの少し、教えてもらいました。

体の研究をしている人達には、
当然なのかもしれないけれど、
ヘモグロビンにかぎらず、
体の多くの器官や要素が、
“意志”を持ってるかのように、
いろんな目的を持って、
活動しているんだなー、

という想像は、
僕にいろんな想像を喚起させるものでした。

なんか、僕達は、

「“ヒトシくん”という人間」

であったり、

「“タマ”という猫」

とか、

「名もないキリン」

という単位で、
感情とか意志みたいなものを、
何気なく、
“区切って”いるけれど、
それは、もしかしたら、

「全部が正しい。」

話では、ないのかもなー、
と、なんとなく思いました。

例えばね、
僕は、

「さとり(悟り)」

っていう言葉を、
最近よく頭でころがして、

「むずかしい言葉だなー。
 はっきり言って、
 よくわかんないなぁ。」

と考えたりしてるんですが、

この、

「さとり」

という言葉の対象を、

もっと大きな単位の、
“宇宙”とか“地球”に向けていた、
宗教者も、いたんじゃないかな?

と、想像しました。

つまり、
「宇宙」とか「地球」にも、
僕達の言葉で言う、
“感情”や“意志”らしきものが、
まったく、
同じ意味ではないにしても、
似たようなものが、
あるんじゃないかな。

とごく自然に、思いました。

「チームプレイ」の楽しさ。

って、ありますよね。
普通の性格の人達には。
(僕にもあります。)

これって、
人間を、
(宇宙とかの)大きな存在の、
“器官”や“要素”
として、見たとしたら、

「かなり本質的な」

「存在に直結した」

おおきな、おおきな、

「よろこび」

を、思い出させるもの、
(あるいは“それそのもの”)
なのかもしれないなぁ、
と思いました。

仏教において、
執着を捨て、
個人を離れ、
回りの諸要素と、
パワー全開で、
協力体制をとろうとする、
おおきな、
ひとつのコンセプトは、

この、

「おおきなよろこび」

に、かなり関係しているのかも知れませんね。

でも、それが理想だとしたら、
なぜ、合理的な存在でない、
(かもしれない)
ひとつ、ひとつの肉体で区切られた、
“個人”や、その“感情”が、
存在するのかな?
と、僕は思いました。

その理由、
というか、
必然みたいなものは、
やっぱりあると思うんです。

そして、
あるひとつの、
まとまりをもった大きな意志が、
肉体によって個人の感情に区切られる、
という作業を想像しました。

そして、風(ルン)という言葉が、
頭に浮かびました。

僕はこの言葉を、
エネルギーやパワーを発生させる、

「循環」

のようなイメージで捉えています。

ある“おおきな意志”は、
(それは、ひとつではないと思う。)
不自然で無作為にも、
みえる形で、
細かくカットされ、

ひとつひとつが、
肉体によって、
ぎゅうぎゅうに、
パッケージされることで、

底知れぬ、
グルグル動き回ろうとする、

“ちから”

みたいなものを、
手に入れたんじゃないかな。

その、ちからは、
少なからぬ、
“不快感”や“不安感”にも、
もとづいているはずで、

大人が時々、

「オギャア」

と泣いてしまうのを、
僕達は時々、目撃します。

そして、もちろん、
僕もあなたも大きな声をあげて泣きます。

それは、

“孤独の獲得”

とも言える、

「ある大きな意志」(チームプレイ)

とも並び立つ、
とても大きな、
金字塔だと、
僕はとても強く想像します。

そして、個人は、感情や意志という、
“こころ”みたいなものを、
肉体という境界線で、
厳格に規定しているかのように、
時々、見えますが、
(そして、もちろん実際、部分的にそうなのですが。)
その中で、少なくない、部分は、
とても、境界線があいまいのように、
僕には思えて、
“こころ”は、
肉体や時間や空間を越えて、
動き回れるんじゃないかと、思うんです。

死んだ人の感情を僕達が、
分量的にわずかで、
多くの誤解を含んでいたとしても、
しっかりと、
受け取れることが、できるように。

僕の感情を乗せた言葉が、
ネットワークを介して、
あなたに届くことが、あるように。

空海や密教の思想を、
語るとき、よく、

「欲望の肯定」

という側面が出てきて、

「誤解されやすいので、こまる。」

と、お坊さん達はよく言います。

そして、正直に言うと、
僕自身もうまく、想像できてなかったんです。

でも、もしかしたら、
ここで言う、
「欲望」は、
いまさっき言ったみたいな、
個人から発生した、
風(ルン)のような“動き”であり、

個人が個人たる、
とても大きな孤独が持つ力に対して、

「そういうのも、あるし、
 認めないと、はじまんないよ?」

ということかも、知れないですね。

“それは、とても、綺麗なものだ。”
(大欲清浄)

と、僕達がよく読む、
経典にも記されてあります。
(色々な理解がされている、
 箇所ではありますが。)

よく、

“孤独であること”

や、

“集合であること”

を、取り上げて、

どっちがいいとか、
あっちがいいとか、

これが、イカン。

という話をしたり、
聞いたりしますが、

個人差は、
とても大きい事を、
前提にして、

「どっちともが、
 すごく大切なんだな。
 本質的なんだな。」

と、本当に強く、
僕は、思います。


ただ、僕は、

「何かを知っている」

わけでは、当然なくて、

今回の話は、僕が、

「なんとなく、想像した。」

事を、みんなに伝えただけ。

ということは、
理解してほしいなぁ、
と、思います。


ミッセイ


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2003-08-17-SUN

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