坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第132回 サンキュー

ほぼにちは。

ミッセイです。

最近、栄福寺で犬か猫を飼いたいと、
主張しているのですが、
家族が、あまり、いい顔をしません。

「じゃあ、ばあちゃんは、
 昔なんか、
 飼ってなかったの?」

と聞いてみました。

「見たことないけど、
 ばあちゃんの、
 お父さんとお母さんが、
 ばあちゃんが生まれる前に、
 サルを飼ってたらしいよ。」

「サルッ!
 なんで、また、サルなの?」

「あのねぇ、
 お風呂を焚くのを、
 手伝ってたみたい。」

「ほ、ほ、ホントにぃ?」
 
「うん、真似事だろうけどね。」

「うそっぽいなぁ。ほんまかな?」

「でも、お父さんが、
 小学生の時も、
 用務員さんが飼ってた、
 サルが“ぎんなん”を採るの、
 手伝ってたなぁ。
 朝礼の時。」

とのことでした。
しかも、ばあちゃんの、
お父さん(坊さん)はロバも飼っていて、
たまに法事に乗っていってたらしいです。

じゃあ猫ぐらい・・・、

と言うのも忘れて、
さるやロバの活躍ぶりについて、
いろいろと、想像してしまいました。


栄福寺は、
檀家さんが、とても少ないので、
お葬式に行くことは、
実は、あまりないのですが、
最近、何件かのお葬式に行って来ました。

坊さんや仏教の歴史に、
ついての本なんかを、
読んでいると、

「昔はお坊さんは、お葬式に行かなかった。」

ということが、
よく書いてあって、
坊さんである僕も、

「へー」

と、思ったりするのですが、
今、坊さんが、
人の“死”に、
関わらせてもらっていることは、
ほんとうに、ありがたいなぁ、
と個人的に思います。

人の死という場面は、
なにかしら特別な感じが、
あることが多くて、
葬式に関わる、
僕にとっても、

「坊さんって、
 やっぱり、
 すごい仕事だな。」

と、勇気をもらうことが、
とても多いんです。

そして、
この葬儀の場所は、
家族の人、知人の人にとって、
お坊さんの、“法話”が、
とても自然に、こころに、
響いてくる場面のようです。

“死”は、残された人を、
とても繊細にします。
 
そんな時、
普段は、
とるに足らない、
作り話のように聞こえる事も多い、
仏教の物語や、
教訓じみた、
きれい事のように聞こえる話に対して、

「そういうことも、
 あるかもしれないなー。」

とか、

「そうであってほしいなぁ。」

という気持ちが、
自然に沸き上がってくるみたいです。

ですから、
この年で、「語る」ことは、
とても気恥ずかしい、
事でもあるんですが、

“役割”をしっかりこなすのが、
何よりも大切なことだ、
と、自分の中の成分を、
「坊さん」
に、ぐーっとシフトさせて、
堂々と話すようにしています。

もちろん、
僕自身が感じてることでも、あるしね。


人の死について、
残された人と、
感情をかわすことは、
うまくいえないんですが、
宗教とか、仏教とかっていう、
話を越えて?
「生きる事への、(素晴らしき)なにか」

が、溢れているように、
僕には思えて、
葬儀のたびに、
僧侶としての僕にとって、
一人の人間としての僕にとって、
おおきな体験を
させてもらっていると思います。

でも、「死」というものが、
すべてを、浄化させて、
美しい思い出だけを残す、
ものかといえば、
やはりそうではなくて、

亡くなった人に対して、
残された全ての人が、
素直にやさしい気持ちに、
なれるわけではありません。
もちろん。

僕も、いくつか、
そういう葬儀を経験しました。

そういうのって、
くわしい事情とかが、
よくわからなくても、
雰囲気で、わかったりするみたいです。

ひとつの葬儀に関わる度に、
僕は、枕経、通夜、初七日の、
3度、法話をする機会があります。

その、
「いろいろありそうな葬儀」
のとき、僕は、

「サンキューなら、言えると思う。」

という話をできるかもしれない。

と考えたんですが、
「余計なお世話」
という気もしたし、
一部の人には、
まったく理解できなくて
不快かもしれないという、
わりに確固たる想像があったので、
違う話をしたんですが、
僕自身、「坊さん」とも「死」とも関係ない、
いろんな場面で思い出します。


生きて生活していると、
いいことも、結構あるんですが、
くやしさもあって、
にくしみもあって、
いかりもあって、
別れも、あると思います。

僕にも、ありましたし、
これからも、あるとおもいます。

そんな時、
最大級の感謝の言葉や感情を、
持てないことが、あったとしても、

「“サンキュー”ぐらいなら、言えるなぁ。
 思えるなぁ。」

と、実感したんです。
自分に照らしあわせて。

特に、一度は信頼して、
手をつないだ関係なら、
その関係が、壊れたまま、
別れたとしても、
言えると思いました。

涙を、何度も何度も、流して、
死者に対して、

「ありがとう、本当に、ありがとう。」

と、言えなかったとしても、

皮肉まじりの、
なかなか悪くない、
笑顔をうかべて、

動かない肩に、
かすかに手を触れて、

「サンキュー」

となら、言えると思いました。

そして、そのことは、
ちょっと考える以上に、
生命を持って生活する僕達にとって、
ホットな事なんじゃないかな。

みんなも、
ちょっと、頭に思い浮かべてみると、
しっかり、正面から目を見て、

「ありがとう。」

とは、なかなか言い難くても、

「サンキュー」

となら、そっと、
声をかけることのできる人って、
わりに多いかもしれないと、
想像します。

そして、
生きている間に、

「サンキュー」

と、
できるだけ僕は言いたいし、

言ってもえる、
事が多いといいなぁ、
と思います。

まぁ、なんか
言語的に無茶苦茶なこと、
言ってるっぽいんですけど、

僕が切実に感じたことの、
ニュアンスみたいなものが、
すこしでも、
伝わればいいなー、と思います。

「サンキュー」って、
なんか、いいなぁ。


ミッセイ


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2003-09-28-SUN

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