第135回 人間という“民族”のクセ
ほぼにちは。
ミッセイです。
秋が来て、
栄福寺を訪れるお遍路さんの数も、
ぐっと増えてきました。
納経所で、
お遍路さん達が、
行列をつくって、
納経をしてもらうのを、
待つ光景も、珍しくありません。
そんなお遍路さん達に、
筆を持って納経しながら、
ふと思ったんですが、
栄福寺って、
「行列のできるお寺」
なんだなー。
と、
感心というか、確認というか、
おー、そういえば、そうなんだよなー。
と思いました。
考えてみたら、すごいよね。
「行列のできるお寺」
もちろん、
この行列は、
栄福寺に対する行列と言うよりは、
「四国遍路」に対する行列です。
だから栄福寺が単体として、
行列を発生させられる訳では、
ないんですが、
結果として栄福寺に行列が、
存在することは、
ひとつの事実として、
ものすごい力を感じます。
まれですよね、かなり。
僕は、今、
頻繁に京都を訪れていますが、
こういう力強さを持つお寺って、
どんな大寺院でも、
なかなかあるものではないんです。
そんな場所で、
僕はどんな言葉を語ることができるだろう?
どんな空間を提供できるだろう?
どんな気持ちを分けあうことができるだろう?
答えめいたメッセージは、
今の僕にはほとんど、ないけれど、
たくさんの可能性のある
ステージに偶然にして、
立っていることが、純粋にうれしいです。
「行列」ができる、
「古い存在」っていうだけで、
もう、残すだけで、
すばらしい存在だとも思うんだけど、
それでも発したい、
自分の声、誰かの声ってヤツの存在を、
本当に確かに、
僕は感じること事があるんです。
みんなも、似たようなもの、
あるんじゃないかな?
たぶん、
あるんだと思います。
お寺について、
いろんな空想をひねっている時、
(この時の感じ、すごく好きです。)
ある人と交わした、
ことばを、本当によく思い出します。
その人は、
ある著名なデザイナーのお葬式に、
出席したばかりでした。
そのことを知っていた僕は、
そのお葬式について、
すこし触れました。
すると彼は、
“じつは、
あまりうれしいお葬式では、
なかったんです。“
という意味のことばを、
発したと、
記憶しています。
そのお葬式会場は、
デザイナーとしての、
亡くなった人の業績を称えようと、
すべてが美しさを感じさせるような、
整然とした雰囲気だったそうです。
でも、その場を訪れた彼は、
気分が悪くなるぐらい、
違和感を感じたようでした。
なんだか死を人の手が、
デザインしているような気が、
したのか、彼は、
“いつか、ミッセイさんが、
ほぼ日で書いていた、
お葬式の方が、僕は好きです。“
という風な言葉をかけてくれたと思います。
(なにせかなり前のことなので、
記憶をたどっての話になります。)
本当に、
このやりとりを、
よく思い出すんです。
僕は美しいものがデザインされたり、
それが、人によって、
つくり出されることが、
とても、大好きです。
そして、人の死も、
もちろん、その対象に成り得ると考えます。
僕に違和感を伝えてくれた人も、
間違いなく(と、僕が思うんですが。)
そう考えていると思います。
でも、その違和感を、
僕は、僕なりに、
すごくリアルに感じることが、できるんです。
そして、そこには、
宗教とか仏教とかに、
僕が大きな魅力を感じている、
かなり直接的な理由が、あると思います。
僕が人によって表現されたもので、
本当に心を揺さぶられる時、
そこには、
美しさだけでなく、
血と肉と微笑みのようなものを、感じます。
建物にそれを感じることもあるし、
イラストに感じることもあります。
音楽に感じることも、すごく多いです。
それって、
ひとことで言う必要なんて、
どこにもないんだけど、
この前、思ったんです。
「“民族”みたいな言葉を、
感じるなぁ。」
ってね。
人が生活していて、
自然にでてくる
スケベ心や、
言語や、
笑顔や、叫び声なんかの、
部分的にひんまがった、
“クセ”みたいな感じで、
本当に切実に、でてきてしまうもの。
それが詰め込まれた結晶みたいなもの。
そこに、僕は、
「いいなぁ。」
って、思ってしまうんです。
そして、
仏教の考えや存在に、
触れていると、
「切実で
おおいなる“民族”のクセ」
みたいのものを、
感じるんです。
人間ってものを、
ひとつの民族と、
とらえることもできると思うしね。
僕がお寺で、なにかしようとする時、
かっこよさ、みたいなもの、
だけではなくて、
血や肉が持つクセみたいなもの。
民族という言葉が、
とてもポップに、
僕に喚起するなにか。
そういうものに耳を、
すませることに事になると思います。
これって、たぶん、
普段の生活とかでも、
そうなんだと思うんだけどね。
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