第138回 坊さんというプレイヤー
ほぼにちは。
ミッセイです。
前回、すこし樒という、
木の葉についてお話ししましたが、
この葉は、“お供え”するだけではなくて、
お坊さんが修法で、
いろんな作法とともに用いたり、
散華(さんげ)といって、
お経を唱えながら、
自分の前方に手で放ったりします。
土砂加持(どしゃかじ)
という砂をつかう修法では、
砂の入った紙の上に、
この樒の葉を一枚、おいて、
法会に参加するお坊さんの前に置きます。
いろんな意味と想いの、
代表選手のような存在が、
この樒なんですね。
密教の特色を本なんかで、
読んでいると、よく、
“象徴性”という言葉が出てくるのですが、
なんとなくわかりにくい、
この言葉も、
「代表選手をよく使う」みたいな語感で考えると、
なんか、すっと体に入ってくる気がします。
もちろんそこで、
象徴という言葉から抜け落ちるものとか、
ひっついてしまうものとかも、
あるんだろうけど、
まぁ、とっかかりとしてね。
今日は、すこし怖い話をしようと思います。
「坊さんと怖い話」
というと怪談とかを思い浮かべると思うんですが、
なにせ、僕は、
お寺でのお泊まり会で
子供達に怪談話をせがまれて、
「自分が怖いから、いやだ。」
と断固拒否したぐらいの人ですので、
怪談話ではありません。
よく作家の人だとか、
ミュージシャンの人が、
「作品と違って、
僕自信はしょーもない人間なんです。」
ということを、インタビューとかで、
語られているのを、時々、みかけます。
発言内容は、いろいろですが、
「作品と僕自身は別物」
というメッセージを、
多くの方が語られているような気がします。
あるいは、そういう側面を多分に持つ。
ということですね。
そんなことを考えながら、
“坊さん”という仕事というか、
役割を眺めた時、
宗教学者や思想家と比べた時の、
“坊さん”の立ち位置が見えてくるなぁ、
と考えたんです。
宗教学者のような坊さんは、多いですし、
僕自身、学術的な研究をされている、
お坊さんに好きなお坊さんも
何人かいらっしゃいます。
でも、お坊さんの、
とっても大きな特徴は、
「プレイヤー」であることを、
つよく、求める。
求められる。
ことだなぁ。
と思いました。
理想論をあえて言うならば、
自分自身が、自分の考える、
仏教のプレゼンテーションを、
常にしているような存在かもしれません。
つまり、
「僕は、別ですが。」
というのが、
あんまり、
そぐわないのが坊さんだと思うんです。
正しい声と調子でお経をあげることも、
伝わった方法で正確に、
大きな法要を執り行うことも、
ひとつの大切なプレイヤーとしての
役割だと思います。
でも、僕が感じる
もっと大きな
プレイヤーとしての行為は、
「坊さんとして、
慈悲という言葉を、
大切にしたいと思っているので、
やさしくなりたいと、努力している。」
とか、
「“慈悲”とか“やさしさ”とかは、
なにを、さす言葉であるかを考え、
実行しようとしている。」
とかだと思うんです。
僕自身、
“やさしいひと”
とは、とてもいえない性格を持ちあわせているので、
おおいに“自戒を込めて”という
話になるんですけれど。
「仏教の考えや、
それに対する、自分自身の解釈の
“プレイヤー”が、坊さんである。」
というのは、
歯切れはよくても、
怖い言葉でもあります。
「おまえは、どうやねん!」
といわれた時に、
「僕は、こう思う。
こうしようとしている。
こうしている。」
と表現する責任が、発生します。
あるいは、
「じつは、わかりません。」
と言う勇気。
でも、プレイヤーって、
おもしろそうだよね。
少なくても、
頭の良さを誇示しようとしているような、
プレイヤーを気取った観客よりは。
逃げ道を作るようだけど、
名手と言われる、
巨人の川相さんだって、
ヤンキースのジーターさんだって、
(有名な野球選手達です。)
エラーするんだから、
僕達が、失敗を恐れることが、
馬鹿げてる。
かたひじを張る必要もないと思う。
自分がへたくそなぐらい、
イヤと言うほど、知ってるんだから。
へたくそなプレイヤーもプレイヤーだ。
この差はデカイ。
でも、僕は言葉を発することも、
プレーヤーだってことを、知っている。
言葉を受けて、
カラダや気持ちが動いたことが、
何度もあるから。
それって、すごいことだよね。
定義なんてわかんないけれど、
坊さんは、
仏教をステージの中心にした、
「プレイヤー」
だと僕は思うなぁ。
と言ってみたら、
自分がかなり観客だったことに、気づくよ。
自分自身、観客であることもすごく好きなだけに、
仏教や坊さんの話だけではなくて、
なにかのプレイヤーであるかを、
いつもチェックしたみようっと。
みんなも、なんかのプレイヤーの方が、
おもしろそうって思わない?
ちなみに、
へたくそなプレイヤーは、つまらない。
という側面も確かにあると思います。
僕がへたくそプレイヤーとして
集中を保つために使っている技術は、
「自己ベスト」
という僕が最近、
大切にしている言葉と、
けっこう全部が関係しあってるっぽいよなぁ、
っていう僕なりの「空」への信頼と実感、
みたいな感覚だと思います。
これからも、僕は、
しょうもないことも言うと思うし、
(しょうもないことは好きです。)
観客であることを、
おおいに楽しむつもりです。
でも、僕は気楽な感じで、
「プレイヤーであること。」
を、求めたいって思います。
「仏教のプレイヤー」であることよりも、
僕が「僕のプレイヤー」であることの方が、
僕にとって重要なことを、大前提にしてね。
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