第149回 釈迦の恥
ほぼにちは。
ミッセイです。
今、前回の内容を
なんとなく読み返していて、
「ああ、
なんか、もうちょっと、
注意深く書けばよかったかな?」
と少し思いました。
うまく言えませんが、
僕がお坊さんとして、
「法律」に対して、
ネガティブな気持ちを、
持っているわけじゃないことは、
どうか、理解してもらいたいなぁ。
と思います。
ただ、いろんな視座とか価値観が、
オートマチックに決定されている場面が、
少し多いような気がするので、
法律に限らず、
宗教に限らず、
その
“オートマチックさ”
は、あまり気持ちのいいもんじゃないよね?
自分でも考えてみたほうがいいよね?
って、少し話してみたかったのです。
でも、その対象は主に、
自分だったりもします。
あとづけの想像かもしれませんが、
僕にとって“考える”ことは、
正解を探すものと言うよりは、
子供が、
プレゼントの入った箱を、
「何が入ってるんだろう?」
と、
大きく振ったり、
小さく振ったり、
いろんな角度で振ってみたり、
するようなものだと思っています。
ですから、
「当たり」「はずれ」みたいなものから、
少し離れて、
「そういう風に振ってみると、
なんか、見えるかもねぇ。
ああ、なんとなく、
私にも、ぼんやり
なにかが見えてきたような気がするかも。
たぶん、ミッセイくんのとは、
違うと思うけどね。」
みたいな感じの雰囲気で、
おおいに利用して、
一緒に考えていただくと、
僕としては、とてもうれしいです。
年末年始は、
栄福寺を訪れるお遍路さんも、
だいぶ少なくて、
お遍路さんと自然に会話が始まることも、
とても、多いです。
そこで、
「お大師さんの真言宗には、
どんな宗派があるんですか?」
みたいなことを、
聞かれました。
「いっぱいあるんですよ。
このお寺は、高野山で、
後は醍醐派とか御室とか智山とか・・・。
真言宗東寺派と東寺真言宗があったり。」
「そーですか。
おもしろいもんですね。
お大師様が、作ったものは、
ひとつなのに、そうなるんですね。」
「そうですね。
まぁ、いろんな理由があるんでしょうね。」
という話をしていました。
宗派は、多くの人に、
不思議に思えるものみたいで、
よく、こういう話になります。
僕としては、
ひとつの社会の中で、
「自民党」とか「共産党」とか
「民主党」とかが、
出現してくるのと、
似た感じもあると思っているんですが、
「そういえば、たしか仏教には、
こんな言葉もありますよ。」
と、ふと思い出したので、
ある言葉を、紹介してみました。
それは、
「宗論は、どちらが勝っても釈迦の恥」
という言葉です。
(だったと思う。記憶です。)
宗論というのは、
仏教では、
結構、昔から伝統的に、
宗派の優劣を、
論議することがあって、
その議論とか論争を指す言葉です。
この言葉は、なぜか、
(本当に不思議なぐらい)
お遍路さんの中年の男性に好まれる言葉で、
紹介するたびに、
とても喜んでくれるのは、
僕としてもうれしい気持ちはあるんですが、
そのわかりやすさが、
なんだか僕の言葉で言えば、
「オートマチック」
な感じが少し、していました。
うまい言い方ではないと思いますが、
「名言によって結論が限定される。」
気がします。
でも、
今回も喜んで欲しくなって、
やっぱり紹介してしまいました。
そして、やっぱりとても、
喜んでくださって、
何度も聞き直して、
手帳に言葉を書き込み、
熱烈なお礼の言葉を、
僕にかけてくださいました。
ここまで喜ばれるということは、
なにかしら、
示唆を含んだ言葉なんだろうね。
みんなは、どんな風に感じましたか?
最近、本屋さんで、
岡本太郎さんの言葉を収めた本を、
読んでいて、
ある言葉に胸を揺り動かされて、
思わず、
その本をその場で、
全部読んでしまいました。
そういうのって、
初めての体験です。
(その後、レジで買いました。)
「人生は、
他人をまかすなんて
ケチくさい卑小なものじゃない。」
という言葉です。
本当に、胸を突かれました。
もしかしたら、
あるお遍路さんにとっては、
「宗論は、どちらが勝っても釈迦の恥」
という言葉が、
同じようなバイブレーションで、
すっと入ってきてるのかなぁ。
そうだとしたら、
これからも、
紹介したほうがいいね。
でも、最近、僕は、
キャッチフレーズのような感じで、
「プロ野球選手の気分」
とよく、唱えています。
それは、
「チキショー、絶対この場面では負けられない。」
とか、
「ここでタイムリーヒット打ったら、
ヒーローだぁー!」
みたいな気持ちです。
僕は、両方、求めまーす。
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