坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第156回 そこには、あるのかもしれない。

ほぼにちは。

ミッセイです。

栄福寺の本堂の隣にある、
桜が咲きました。



今はもう散り始めているんですが、
咲き始めた頃は、
まだ周りのお寺の桜は咲いていなくて、

「あっ、ここは、もう咲いてる!」

と、たくさんの人に喜ばれ、
ちょっと、うれしかったです。

この桜は「山桜」という種類らしくて、
他の桜よりも、
すこし咲くのが早いんです。

決して大きくない桜なんですが、
この“すこし早い”ってことで、
たくさんの人が喜んでいる姿は、
なんか得した気分ですね。


最近、栄福寺に、
テレビ番組やDVDを作っている人達が、
四国遍路の取材に来て、
僕にも少し話して欲しい。
ということだったので、

取材班が来られる前に、
なにを話そうか考えていました。

その時に、
栄福寺の御詠歌(ごえいか、ふしつきの和讃)
の歌詞を、あらためて眺めました。

四国札所には、
ひとつ、ひとつ御詠歌があります。

栄福寺の御詠歌は、

「この世には、
 弓矢を守る八幡なり、
 来世は人を救う弥陀仏(みだぶつ)」

という御詠歌です。

栄福寺と明治時代まで同じ境内にあった、
八幡神社の神様は弓矢の神様で、
栄福寺の本尊は阿弥陀如来なので、
こんな歌詞がついています。

僕は、あまりにも身近に、
子供の頃からこの言葉に触れていたので、
深くこの言葉を考えたりすることは、
今まで、あまりなかったんですが、
なんだかその時、ハッとしました。

山頂から、
山の中腹に下りてきた阿弥陀如来が、
中腹に来られたことは、
政治的な意味合いが、
大きいとされていますが、
ある意味で、示唆的なことかもしれないなー、
と思いました。

そして仏教は、
“勝つ”というよりは、
“救う”ことを、
掲げ、テーマにしているのかもなぁ。
と考えたりもしました。

これは対象にたくさん“自分”を、
含んだ話だと思うんですが。

“勝つ”と
“救う”って、
どんな風に違うんだろうねー。

そんなことを考えるのが、
じつはとっても宗教的で、
生きることに強く結びついた、
思索なのかもしれないなと思います。

「あるべき場所へ
 戻っていくいように、進む。」

救うってそういうことなのかなぁ。
わからないです。


取材が始まって、

「20代の住職として、
 20代の皆さんに、
 メッセージを!」

と聞かれたんですが、

「ないです。」

という勇気もなかったので、(ははは)
自分の中にメッセージらしきものを、
探してみました。

その時は、しどろもどろ、
話したと思うのですが、
こんなことを考えていました。

これは同時に、
自分へのメッセージでもあります。
もちろん。

“若い”ことの、
苦しみやもがきみたいなものは、
定まってなかったり、
到達していないと感じることが、
大きいと思います。

僕もそうです。

でも、
なにかを強く思ったり、
確信した時、

その方向をみて、

すこしでも、
歩き出しているとしたら、
1ミリでも動き出そうと、
寝返りのぐらいの大きさでも、
もがくように進んだならば、
そこには決して弱くない、

「ちから」や「コミュニケーション」や
「ハッピー」みたいなもの。

そんなもんが、
あるんじゃないかと思うんです。

そして、そこには、既に、

「本当に欲しいもの」

自体がたくさん含まれていると思うんです。

そして、
定まっていないこと、
到達していないこと。

そう感じることが、
とても自然なことだと、
理解すること。

そんな言葉を、
いつも自分に対して、
最近、投げかけているので、
話そうとしました。

もちろんこれは、
僕による僕のための、
個人的な物語かもしれませんが、

僕は最近、そんなことを考えています。


ミッセイ


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2004-04-04-SUN

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