第159回 なんとなくの信頼と告白成分
ほぼにちは。
ミッセイです。
以前に、
「最近、作務衣を着なくなった。」
ということを、書いたと思うんですが、
あれ以来、作務衣を着まくっています!
そういうことって、
あるんですねぇ。
季節のせいもあるかもしれないです。
古い存在を含んだアイデアを
職業にしている“しるし”として、
伝統衣装は、
なんだか、おもしろそうな存在ですね。
僕は、
「ほぼ日」という場所で、
いろんな人の意見が聞けるとか、
本屋でサラリーマンをしていたとか、
いろんな原因があると思うのですが、
仏教関係以外の人から、
坊さんや仏教に対する
印象や感想を聞けることが多いです。
で、それには、予想以上の、
“なんかいい感じ”
も含まれるのですが、
悪い印象を少なからず持っている、
人達の存在も、
しっかりと確認することができます。
そして、僕にだって、
やはり同じように、
「これはちょっと、どうよ?」
みたいな感想を抱くことだって、
少なくはありません。
でも、僕はなんとなく、
“今”に続き、
“今”ある、
仏教とか坊さんに対する、
信頼のような感情が、
わりにしっかりとあるんです。
えーっと、
嘘くさいかもしれないけれど、
けっこう、そう思っています。
それは、
「少なくても自分は、
理想的に思える申し分ない形で、
仏教と出会うことができているなぁ。」
という思いがあるからです。
“有り難い”です。
僕は、自分の意志で、
経典を読もうと思えば、
読むことができるし、
いろんな人達が釈尊とか宗祖について
書いたものを読むことができるし、
人に伝えたいと思えば、
お寺という「箱」は既にあります。
そして、それは、もちろん、
僕だけでなく、
多くの坊さんが享受している環境です。
これを読んでいる、
読者の人達もそういう環境を、
いくつか受けていると思います。
(仏教とは関係なく)
これって、なんかすごいことだなぁ、
と思います。
僕はこれが、
「残してあげられると大きな親切だな。」
と思うことの、
かなり大きなもののひとつです。
自分の後に縁ある人が、
自分と同じような、
申し分ない環境で、
仏教と出会えるような環境を残す。
これは、とても大きな親切だと思いまし、
役割なんじゃないかと思います。
自分が
「親切にしてあげたい。」
と思う人って、
多くの場合、
「親切にしてくれた人」
だと思います。
(いろんな親切がありますけれど。)
そして、
「どんな人なら、友達になれるだろう?」
とかって、考える時も、
なんか恥ずかしいのですが、
「自分のことを、わかってくれる人。
好きになってくれる人。」
だと思うんです。
これって、逆転して考えると、
「自分から、人に親切にできるか?」
(最近、“親切で正直”を、
できないものかと、よく考えます。)
とか、
「自分の側から、
人の感じ方や佇まいに、
ウットリするスタンバイはできているか?」
という感じになると思います。
いつもは他人に求めることの多い、
感情の最初のアプローチを、
自分から「つくる」ことで、
なんか、楽しく、“楽”なことが、
はじまる可能性があるように感じます。
その分すれ違いも増えるけれど、
それは、副作用として、
あきらめる勇気があるかどうかでしょうね。
(僕には今までは、ないことが多いです。)
お釈迦さんは、この、
「自分からの、働きかけ」
みたいなものを、
かなり重要視していたんではないかと、
僕は思います。
そして
自分の感情の中の、
能動的ななにかが、
世界をほんのわずかでも
変化させるということは、
僕達が生きることを、かなり力強く、
あたためる事実ではないかと思うんです。
僕達が選ぶことができることは、
時にすごく限定されていますが、
選ぶことができるものを、
しっかりと見極めることは、
選ぶことができるものが、
限定的であるという事実よりも、
時に重要な気がします。
とか言って、
僕は基本的にかなり“待ち”の人で、
この性格は、
なかなか変わらないと思うし、
大切な何かも含んでいる気もするんですが、
いろいろなものに対して、
「告白成分」の機会も少しずつ、
増やしていきたいな、と思っています。
宗教や教団をつくった人、
新しい何かを夢見た人達は、
今という現在の状況に、
“異端の部分”を、
“表明”した人達なので、
少なからず、
この「告白成分」を持っていたと想像します。
そして、それは、
「自分こそは新しい。」
というよりは、
「自分こそは自然で、
真にトラッド(伝統的)な態度を持っている。」
と言う場合の方が多いような気がします。
なんでだろうね?
死人達の夢のつまった、
トラッドには、
何人分もの感情が詰まっている分だけ、
量が多いので、
様々な解釈や編集が可能です。
そしてそこには、
いくつかの死の予感があって、
“使われる”
事を心待ちにしている雰囲気を時々感じます。
それに敏感な人達は、
そこに感応するように、
呼ばれるように、
口を開くのかもしれません。
でも僕のサイズにとって、
死んでいった人達は時々、
量が多すぎるようにも感じるので、
鳴っている音楽や、
通りぬける風のように、
自然にすっと、
耳を澄ませるものとして、
接していきたいと思います。
少なくても僕は、
世の中のとって新しいものよりも、
自分にとって自然なものを、
見てみたいなと思います。
これって、結構多くの人が、
そう思っているんじゃないかな?
アボガドジュースよりも、
とってもおいしい
オレンジジュースを飲みたいような。
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