第163回 アルバムのように法事を。
ほぼにちは。
ミッセイです。
最近、栄福寺に、
なかなか可愛い、
サルのお守りが、やって来ました。
「苦難さる守」君です。
お守り担当の母に聞くと、
「最初は、
“災難さる守”だったんだけど、
“苦難さる守”に変えてもらったのよ。」
ということでした。
なんか、
心情として頷けるような気もしますが、
なんとなく微妙な話です。
でも、僕が気に入ったお守りは、
たいていあまり売れないのですが、
(う〜ん。)
最近のスマッシュヒット商品は、
「ぼけ封じ茄子守」です。
「私は、まだ早い気もするんだけど・・・。」
と皆さん言って買っていかれます。
「なんで、茄子なんですか?」
とよく聞かれるので、
「やっぱり“ボケ茄子”じゃないですか?」
ときっぱり言っていたんですが、
ちょっと気になって、
いろんな人に聞いてみたら、
どうやら違うようです。
(すいません。)
茄子の花ってほとんど無駄なく、
実になるから、
昔から茄子は縁起物らしいです。
そして、こちらも、
わりと常識的な有名な話みたいなのですが、
昔は高価だったので、
夢に見ると縁起がいいとされていたようです。
とある、
おばあさんなんかは、
「そうそう、
昔から、
“嫁には秋茄子を食べさせるな”
なんてことわざもあってねぇ。
ヒヒヒヒヒ。」
と独身女性が震え上がるような
発言をしておられました。
コワイですね。
でも、これは、
「体が冷えるから」
という意味も、あるみたいです。
少し前に、
ほぼ日の『家族の肖像』に
投稿しようと思って、
本当に久しぶりに家族のアルバムを開いたのですが、
すごく気持ちよかったです。
なんかうまく表現できないような、
気持ちよさがありました。
ちょうど次の日に法事があったので、
そのことも少し話してみました。
法事には、
まだ亡くなったばかりの、
「四十九日」
から、
「百回忌」のような、
ずっと昔に亡くなった方の
法事までありますから、
法事によって全然、雰囲気が違います。
はっきり言って、
遠い人の法事には、
もう「お祝い」みたいな雰囲気さえあって、
僕自身も、
「百回忌まで、拝めるなんて、
家族にとっても、故人にとっても、
本当にうれしいことですね。」
と話したりします。
今回の法事も、「五十回忌」だったので、
僕が拝む前から、
「おっさん、
実は、私、この方に会ったこともないんですよ。」
とか、
「私が、小さい頃に亡くなったんですよ。」
ということでした。
そういう法事って、
どういう風に思いを込めればいいか、
家族の人も戸惑っている場合があります。
そして、僕としては、
なんとなくの義務としてではなくて、
やっぱり“意味あるもの”“うれしいもの”
として、法事をしてもらいたいという、
坊さんとしての思いがあります。
だから、
そこで、
知らない人の法事、
遠い人の法事は、
家族のアルバムを開くような気分で、
法事をしてみたらどうでしょう?
という話をしました。
「あの、おばさん、あんな人だったらしいよ。」
「子供の頃、あんなことして、怒られたな。」
「アイスクリームをおごってくれたな。」
そんなことを、思い出しながら、
「あの、おじいさん、今なら、
どんなことを言ってくれるだろう?」
そんなことを、考えることが、
実は、
とっても大きな供養になるんじゃないかと
僕は思います。
「それは、別に、
法事じゃなくても、いいんじゃない?」
と言われるかもしれないけれど、
「誕生日」みたいな、
“それを祝うと決めた日”
のような日が、あることは、
悪いことでは、ないんじゃないかな?
田舎の法事は、
どうしてもお年寄りが多くなるので、
「耳が片方、つまった感じになったら、
風景が紫色になってしまうサインなのよ。」
というような、
健康に関する話になります。
そういうことを聞いていると、
体がちゃんと動いてくれる
ということは、
当たり前のことではないし、
永遠に続くものではないんだな、
という思いを深くします。
春の気候がすこぶる気持ちいいのを、
春には忘れてしまい、
夏になって思い出すように、
僕達の体もいつか、
動きにくくなるんだろうね。
ミッセイ
ミッセイさんからのお知らせ。 |
シンメディアという出版社刊行の
『季刊 巡礼マガジン』
というシブイ名前の雑誌で、
「おもいだす空海」という連載を、
最新号の31号から始めました。
(ほぼ日を読んだ編集者の方から、
お話を頂きました。)
空海の著作の言葉に、
僕が短いコメントと、
写真を添えるという、
見開き2ページでの連載です。
手に取られる機会があれば、
ちらっと覗いてみてください。 |
|
|