第170回 死んだ人の穴を掘る。
ほぼにちは。
ミッセイです。
この前、
法事で近くのおじいさんと、
お墓に行った後、
軽トラックに乗せてもらって、
お寺に帰る途中に、
「墓の穴を掘っていた。」
という話になりました。
昔は土葬が多かったので、
お墓の下にかなり大きな
スペースが必要になります。
そこで、人が亡くなると、
選ばれた村の人が4人ぐらいで、
お酒をたんまり買ってきて、
1日かけて、
大きな穴をお墓に掘っていたそうです。
どうして、お酒を飲んでたんだろうね。
1 「お清め」の意味があった。
2 一種の「祝祭行事」として、
捉えられていた側面がある。
なんて、もっともらしいことも、
実際あるのかもしれないけれど、
現実問題として、
「酒でも飲まないと、やってられない。」
という、
作業だったのかもしれないね。
肉体的にも精神的にも。
その後、
とてもおいしい巻きずしを、
よくお寺に持ってくれていた、
おばあさんの一周忌があったので、
最近、読み返していた本の中で、
心にひっかかった言葉があったので、
「こんな言葉があるのですが、」
と紹介しました。
記憶ですが、
要約すると、こんな言葉です。
「親しい人の死は、
生きている僕達が実は、
はっきりと持ち抱えている、
“死”をくっきりと浮かび上がらせます。
そして、それを、
きちんと見つめることは、
僕達の人生に確かな
“深み”のようなものを作り上げます。」
初七日や四九日では、
喪失感が強すぎて、
自分のことまでは考えられないだろうけれど、
一周忌に贈る言葉として、
「いいなぁ。」
と思って、紹介しました。
僕自身、
よく思い出す言葉になるんじゃないかな。
そして、
「“さようなら”からしか、
はじまらないことも、あると思います。」
という思いを話しました。
僕らにとって、
別れは、強い痛みを伴うものだけれど、
それは、時にはこちらから、
つかみ取らなければならないほど、
大切なものかもしれない、
と想像します。
死は多くの場合、
不意にそして、
望むことなく訪れるものだから、
大切とはなかなか感じにくいし、
僕がそういう状況に対面しても、
そうだと思います。
でも、
それは確かに「必然」を超えて、
僕達を、
どこか起爆し展開する
大事なものなのかもしれないですね。
栄福寺にお墓があったらいいかもなぁ、
と時々、思います。
一本の古い石。
何も刻まれていない。
その下に何人もの人の、
米粒ほどの骨が納められます。
それを見た寺を訪れる誰かは、
他人の死を思い、
自分の死を思います。
そこには死者の生があり、
息をする僕達の死があります。
死にゆく人は、
ここに残った人に、
何かをプレゼントできるかもと思い、
家族のない人は、
これからも多くのお遍路さんが、
手を合わせてくれる事に、
安心のようなものを感じるかもしれません。
そんなお墓があったら、
入ってみたり、
自分の骨の一部を納めてみたいって、
思いますか?
ミッセイ
ミッセイさんからのお知らせ。 |
シンメディアという出版社刊行の
『季刊 巡礼マガジン』
というシブイ名前の雑誌で、
「おもいだす空海」という連載を、
最新号の31号から始めました。
(ほぼ日を読んだ編集者の方から、
お話を頂きました。)
空海の著作の言葉に、
僕が短いコメントと、
写真を添えるという、
見開き2ページでの連載です。
手に取られる機会があれば、
ちらっと覗いてみてください。 |
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