第173回 澄んだ光という新しい名前。
ほぼにちは。
ミッセイです。
今日は久しぶりに、
檀家さんのお葬式に行って来ました。
何度も書いた気もするんですが、
お葬式でかなり直接的に、
「死」のシーンに関わると、
そこには、
本当に特別な雰囲気がありますね。
みんなは、
「亡くなった方の体」
というもの自体を、
見る機会が、あまりないんじゃないかな。
僕は年に年に4度ぐらい、
亡くなった人の唇に、
樒の葉で水をつけるのですが、
(お坊さんとしてはかなり少ない。)
そのたびに、
「あー、人というのは死ぬんだな。」
と深く思うよ。
「例えば自分の親が死んだとしたら、
どんな気持ちで自分なら拝んで欲しいか。
どんな話をして欲しいか。」
ということを考えながら、
今回、
お葬式にまつわる作業を進めてみました。
もちろん、
思ったように、
うまく話せるわけではないんですけれど。
「亡くなったら、どうなるか。
それは、僕にもわかりません。
ですけれど、
わからないからこそ、祈る。
ということも、
あるんじゃないかと思います。
明日は皆さんと、
わからないことに、
ありったけの心を込めて、
修法したいと思います。」
お葬式の前夜のお通夜で、
そんな話をしました。
今回、
戒名の「現世」をあらわす部分で、
「澄光」(ちょうこう)
という言葉をつけさせてもらいました。
その主人公は、
どちらかといえば、
亡くなった人よりも、
それを受け取る
「残された人達」
で、あると感じました。
近しい人を、
亡くされた人と話していると、
「死んだ後のほうが、
その人とよく話している気がする。」
ということを、よく聞きます。
そしてそれは、
その人が生きていた頃よりも、
なにか澄み渡ったような、
「いいイメージ」
で、あることが多いです。
そして、肉体を持たない
その存在のイメージに近いものを、
僕は、
「光」
だと考えました。
この世でも、
澄んだ光となって、
いてくれる。
そんな名前を、
家族の人達も、
とても喜んでくれました。
「澄」
という言葉は、
すこし女性的かな、
という気もしたんですが、
(字面のイメージは、
わりと重要ですよね。)
澄禅(ちょうぜん)さん
という梵字が書くのが、
うまくて有名なお坊さんが、
昔いましたよー。
などという話をしてみたり、
「徳」という、
わりと重い漢字を、
他の部分で使うことで、
バランスをとってみました。
ちなみに、
「徳」という字のつくお坊さんには、
徳一(とくいち)さんという
平安時代の法相宗のお坊さんがいます。
空海の教理に対して、
公開質問状のようなものを著したり、
(でも後年、
空海は徳一に写経の奉納を
お願いしています。
仲がよくなったんだろね。)
最澄と論争したり、
僕も今回、調べてみて、
はじめて知ったんですが、
おもしろそうな、
お坊さんですね。
戒名に使った字で、
こんなお坊さんがいる。
というのが、
家族に「喜ばれる話」
であるというのも、
今回、はじめて知ったことです。
(いつも喜ばれるかどうかは、
わからないですけれど。)
戒名というのは、
仏教のお弟子さんとしての、
名前だから、
これからも、
してあげられると、いいな。
新しい名前を、つける。
というのは、
古い名前と別れる。
ということでもあると思います。
僕、という小さな存在が、
その大いなる門出であったとしても、
たまらなくつらい別れに対して、
すこしでも役の立つ存在であったらいいな。
僧侶として、
というよりは、
ひとりの生命を持った存在として、
本当に心から、そう思うよ。
それは誰かの為だから。
ということではなくて、
「自分」に対して、
本当にいいことだと思いました。
ミッセイ
ミッセイさんからのお知らせ。 |
シンメディアという出版社刊行の
『季刊 巡礼マガジン』
というシブイ名前の雑誌で、
「おもいだす空海」という連載を、
最新号の31号から始めました。
(ほぼ日を読んだ編集者の方から、
お話を頂きました。)
空海の著作の言葉に、
僕が短いコメントと、
写真を添えるという、
見開き2ページでの連載です。
手に取られる機会があれば、
ちらっと覗いてみてください。 |
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